「開元の治」から唐の滅亡へ[たった15分で要点を総ざらい!受験に役立つ世界史ノート]

今回は唐の動乱期から滅亡までの流れを確認します。唐王朝の成立以降、高祖、太宗、高宗と、律令体制を築き大帝国となった中国では、一時、国号がとなる時期を経て、玄宗の時代には5300万人にも上る人口を抱えるまでに発展します。

しかし、変容する社会情勢の中で律令体制を保つことが難しくなり、次第に内政の乱れ、税制の改革による民衆の負担は増大していく一方でした。ここでは、このような経緯を順に負いつつ、唐の文化についても整理したいと思います。

それでは、始めましょう!

隋・唐と東アジア文化圏の形成
Part1 隋・唐の社会と東アジア文化圏
1.隋の統一国家形成と滅亡
2.律令国家、唐の発展
3.東アジア文化圏の形成
Part2 「開元の治」から唐の滅亡へ
1.律令国家体制と唐の崩壊
2.唐代の社会・文化
3.確認問題

Part2 「開元の治」から唐の滅亡へ

律令国家体制と唐の崩壊

唐初期の社会

Part1で確認したように、唐王朝最大の特徴は律令国家体制を布いたことである。の法体系が整備され、このような国家統治制度は東アジア諸国に大きな影響を与えた。唐の中央官庁では、三省・六部・九寺・一台の各機関が各々の政治的役割を担い、地方行政は州県制が採用された。民衆に対しては、均田制に基づく土地の給付が行われ、租調庸による納税が義務付けられていた。また、府兵制によって、衛士防人として一定期間軍事に従事する府兵が3人に1人の割合で選ばれ、都や辺境の防備に当たらされた。

高祖(李淵)、太宗(李世民)の跡を継いだ高宗(位649~683年)は、唐の領土拡大や羈縻政策の実施などの施策によって唐王朝の発展に貢献したが、「貞観の治」とも呼ばれる唐王朝の安定期を築いた2代目皇帝太宗ほどのカリスマ性は持ち合わせていなかった。高宗は、北周から隋、唐王朝まで脈々と続く北周系の門閥貴族である関隴集団によって支えられ、君主として王朝を治めてきた。

しかし、高宗が武照という女性(※玄宗の時代に則天武后と呼ばれるようになり、武后の名で定着。)を寵愛するようになってから、唐王朝の更なる発展、そして滅亡へと動き出す。

女帝、則天武后(位690~705年)による武周革命

高宗はまず、関隴系の王皇后を辞めさせた後、勝手に武照を新たな皇后に建てた。皇后となった武照は病弱な高宗に代わって政治の実権を握り、高宗退位30年後の690年からは皇帝として、大帝国を築いた。武照中国史上唯一の女性皇帝として知られるが、のちに女性天皇を認めない立場から武后と呼ばれるようになった。

〔則天武后(位690~705年)〕

まず、武后は皇帝に即位すると、国号をに改めて、長安に代わって洛陽に都を定めた。この出来事を武周革命と呼ぶ。周を建国すると、長安の旧貴族勢力に対抗して科挙官僚の進出を促進した。また、唐が道教を保護していたのに対し、武后は自らを弥勒仏になぞらえてそのイメージを布教した。

弥勒仏とは・・・
弥勒菩薩。仏教における未来仏。また、未来に仏となって人々を救うことが約束された人物。釈迦の入滅から56億7千万年後の未来に天からこの世へと下ってきて、人々を救済するとされる。

晩年になると、則天武后は退位を迫られ、705年をもって周は滅亡した。そして、次の皇帝には高宗の息子中宗が復位し、国号はに戻った。復権した李氏の政権もまた、中宗の皇后葦后と武氏一族によって権力を奪われそうになるものの(武葦の禍)、李氏一族の李隆基がこの対立を制して葦后らを追放し、再び唐の李氏政権は保たれた。李隆基は父である睿宗からの禅譲を受け、712年に皇帝玄宗として即位して唐に繁栄をもたらした。

唐6代目皇帝玄宗(位712~756年)時代の政治

44年間の玄宗の治世は、713年から741年までの開元年間と742年から756年までの天宝年間の二つの時期に分けられる。前半の開元年間には高宗以降の混乱を平定して唐王朝の安定を実現させたため、太宗時代の「貞観の治」と並んで、開元の治と呼ばれている。唐の人口は、1300万人程度から最高で5300万人程にまで急増した。玄宗はこうした社会の変化に伴って、次々に新たな施策を打ち立てた。

〔玄宗(位712~756年)〕

玄宗時代の制度改変

  • 均田制の破綻
    人口が急増すると均田制はこれまでのようにはいかなくなった。土地が不足し、民衆に満足な土地の支給ができない一方で、それまでと変わらない重い税や兵役が課される状況下では、客戸と呼ばれる逃走者が増えた。これに対し、客戸に軽税のみを課して開墾した土地を登録させる制度や、耕作面積に応じた地税や貧富に応じた戸税を整備するなどの土地制度、税制の政策を講じた。
  • 募兵制の実施
    均田制の破綻に応じて、兵農一致による府兵制の実施も難航していた。人口増加と共に増大する兵員の需要に応ずるため、府兵制に代わって募兵制がとられるようになった。募兵制とは、募集して雇い入れた兵士によって軍隊を組織する制度であるが、募兵は次第に長期化し、ついには軍鎮に常住するようになった。こうした勢力は安史の乱以降、藩鎮を促し唐末の混乱を招いた。
  • 「令外の官」の設置
    玄宗は、人口増加、諸制度の改革等の社会の変革によって律令体制では対応できなくなった事態を対処するために、「令外の官」と呼ばれる使職を置いた。長安や洛陽への穀物の輸送を司る転運使によって食糧問題が解決され、塩の専売を司る塩鉄使によって財政の安定が実現したが、特に重要な使職であったのが節度使である。
    節度使辺境の軍鎮を管理する職であり、10か所の軍鎮それぞれに置かれた。長城以南の7つの軍鎮では文官が、長城より外側の辺境に置かれた3つの軍鎮では武官や異民族出身の蕃将が節度使に就いて、軍事・民政・財政の権限を行使した。

玄宗時代の後期の社会と安史の乱

玄宗は後期に入ると政治への意欲を失い、宦官や宰相に政治を委ねるようになった。751年にはタラス河畔の戦いで高仙芝がアッバース朝に大敗し、西トルキスタンの支配から後退した。そんな中、玄宗の権威衰退を決定づけた出来事が安史の乱(755~763年)である。

〔安禄山〕

安史の乱は蕃将として辺境地域を治め、絶大な権力を誇っていた安禄山という胡人が、自らの地位を脅かされる危険を知って蜂起したことに始まる。彼は755年に洛陽と長安を陥落させ、翌年に皇帝に即位して大燕国を建国した。その後、安禄山とその仲間の史思明が立て続けに殺され、唐がウイグルの支援を得たことで安史の乱はなんとか平定されたが、この反乱中に逃げた玄宗はその権威を完全に失い、もはや唐王朝の権威再建は不可能なまでに国内は壊滅的な状況となった。

両税法の実施と唐の滅亡

安史の乱で急速に弱体化した唐では中央集権的支配は崩壊し、辺境地域の統治はままならなくなり、各地の節度使が軍事・民政・財政の全権を委ねられて藩鎮となった。さらに羈縻政策も破綻し、東アジア周辺諸国への対応にも苦慮するような状況であった。

両税法の導入

増大する軍事費を維持することが難しくなったため、唐末期には租調庸制が廃止された。780年、楊炎による両税法の導入はそれまでの定額制の税制から予算制の税制への移行を意味した。両税法の下では、人々は国が定めた予算に基づいて州県によって夏・冬2回に分けて徴収されたが、それらは各戸当たりの資産に応じて定められていた。このような制度は秦漢から続く中国の税制を大きく塗り替えるものだった。

黄巣の乱(875~884年)と唐の滅亡

両税法は租調庸制とは違い、銭納を原則としていたため、農民は大きな負担を強いられた。さらに、唐末には塩の専売によって塩の値段が高額に吊り上がり、農民たちの更なる負担となった。当時はこうした状況を受け、塩の密売が横行していた。

朝廷で続く政争と農民たちの不満の高まりの中で、東部の運河沿いの地域で度々大きな農民反乱が起こり、ついに塩の密売人黄巣による反乱黄巣の乱の際に、長安と洛陽が陥落した。黄巣の乱は、朱全忠と節度使李克用の力によってなんとか平定されたが、907年には朱全忠が唐を滅ぼし、300年弱に及ぶ唐王朝はついに滅亡した。

〔唐代の世界〕

(世界の歴史まっぷHPより)

唐代の文化

唐代の中心は貴族であった。科挙制度に伴って流行した詩・文学を始めとする様々な文化が栄えるとともに、学問としては経(経典)・史(歴史)・子(哲学・思想)・集(文学)の四部分類が確立し、清代まで用いられた。さらに、ゾロアスター教、景教を始めとする宗教や、その他の文化が東西交易を通じて中国に伝えられたのも唐代の特徴である。

  • 文学
    • 詩文…李白杜甫、王維、白居易(「長恨歌」)など
    • 散文…韓愈柳宗元(古文復興)
  • 絵画
    • 山水画の確立…呉道玄、王維など
    • 唐代を代表する力強い楷書の発展…顔真卿
  • 儒学
    • 訓詁学(経典解釈の学問)…孔穎達『五経正義』が科挙の基準となった。
  • 歴史書
    • 房玄齢 『晋書』、劉知機 『史通』、杜佑 『通典』 など。
  • 宗教
    • 仏教
      宮廷や貴族の間で栄えた。玄奘陸路で渡印して『大唐西域記』を、義浄海路で渡印して『南海寄帰内法伝』を著した。浄土教が広まる一方で、中国仏教と呼ばれる禅宗が確立した。真言宗や天台宗などの密教も盛んになった。
    • ゾロアスター教(祆教)
      唐代には、シルクロードを通じて盛んにペルシア文化が流入した。長安にはたくさんのソグド人が滞在し、彼らの宗教であるゾロアスター教も6世紀に初めに伝来した。長安や洛陽にはゾロアスター教の寺院がいくつか建てられたが、中国では祆教と呼ばれ広まった。
    • ネストリウス派キリスト教(景教)
      東西交易を通じて、マニ教と共に7世紀に伝来した。ネストリウス派キリスト教は中国では景教と呼ばれて流行した。長安にある大秦寺に建てられた「大秦景教流行中国碑」は、明末に発見され、今もなお残っている。
  • その他の文化
    • 唐代にはペルシアからたくさんの文化が伝えられ、唐の文化と融合して国際色豊かな文化が形成された。その代表が、唐三彩と呼ばれる工芸である。唐三彩は白や緑、黄色といった彩色が施された陶器で、唐代の墓から多く出土している。ラクダや胡人などのエキゾチックな題材が多く、唐代の国際色豊かな文化を伺い知ることができる。
    • 唐代の後期には、再び盛んになった海上交易によって栄えた揚州広州市舶司という交易の監督機関が設置された。

〔唐三彩〕

確認問題

  1. 唐代の土地制度、兵制は隋の制度を継承した。それぞれ何という制度か答えよ。
  2. 唐代には、ペルシアの文化を取り入れた陶器が作られた。それは何か。
  3. 唐は安史の乱を平定するのにだれの援助を得たか。
  4. 907年、唐は誰に滅ぼされたか。
  5. 太宗が行った善政は何と呼ばれるか。
  6. 隋の文帝が九品中正を廃止して新たに実施し、唐代にも継承された官吏登用法は何か。
  7. ゾロアスター教は中国に伝来して何と呼ばれるようになったか。
  8. 海上交易の管理を行うために揚州や広州に置かれた役所を何というか。
  9. 租調庸制に代わって両税法を施行した宰相は誰か。
  10. 7世紀にインドから大量の仏典を持ち帰り、『大唐西域記』を著した僧は誰か。

・・・・・・・・・・・・・・

(解答)

  1. 均田制、府兵制
  2. 唐三彩
  3. ウイグル人
  4. 朱全忠
  5. 貞観の治
  6. 科挙
  7. 祆教
  8. 市舶司
  9. 楊炎
  10. 玄奘

→続きはこちら イスラーム世界の形成とアッバース朝

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参考資料

  • 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
  • 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
  • 世界の歴史まっぷ
    • 最終閲覧日2020/6/8
  • 東京国立博物館HP
    • 最終閲覧日 2020/6/8

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こんにちは。 私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。