日本人なら知っておきたい文学作品!平安時代の詞華集『和漢朗詠集』を徹底解説

和漢朗詠集』の“和漢”は和歌と漢詩文を指しますが、『和漢朗詠集』とは当時貴族に朗詠されていた漢詩文588首和歌216首を収載した全2巻からなる詞華集です。また、『倭漢抄』『四条大納言朗詠集』とも呼ばれるこの作品の撰者は藤原公任(ふじわらのきんとう)とされています。『和漢朗詠集』以前にも漢詩集である『文化秀麗集』が編纂されていますが、『文化秀麗集[i]』は漢詩文のみで構成されている一方、『和漢秀麗集』は漢詩文と和歌で構成されており、このような構成の漢詩集は『和漢朗詠集』が初でした。『和漢朗詠集』の部立は上巻が四季部になっており、下巻は雑部になっています。

『和漢朗詠集』の内容について見ていく前に、作者とされている藤原公任について解説します。

藤原公任(康保3年(966年)〜長久2年(1041年))は平安時代中期の歌人・公卿[ii]であり、祖父は藤原実頼[iii]、父は藤原頼忠[iv]です。藤原氏の中でも家格の高い小野宮流[v]出身でしたが、九条流[vi]の藤原道長[vii]が政権を握っていたため、藤原公任は漢文学や和歌をはじめとした芸術の方面で活躍しました。そんな藤原公任が撰者となり編纂した歌集は、『和漢朗詠集』の他に『拾遺抄』(『拾遺和歌集』の基になったと考えられている歌集)、『金玉集』『深窓秘抄』などの私家集、『前十五番歌合』『三十六撰』といった歌合形式の秀歌集などがあり、新たなスタイルの歌集まで幅広く手掛けた人物であることが分かります。有名な歌人というよりは撰者として優れた人であったと考えられます。

藤原公任は紫式部[viii]の日記とされる『紫式部日記』、清少納言[ix]の作とされる『枕草子』に登場しています。それぞれ詳しくみていきましょう。

まずは『紫式部日記』からです。
寛弘5年(1008年)11月1日の記事では、宴会の席で酒に酔った藤原公任が紫式部らのいる部屋のそばに来て「あなかしこ、このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」(『日本古典文学全集 紫式部日記』)と言って几帳の間から垣間見る場面が描かれています。この場面で藤原公任が紫式部のことを“わかむらさき”と呼び掛けたことは、『源氏物語』の作者が紫式部ではないかと考えられる根拠にもなっています。この場面について三木雅博[x]は、「紫式部は、公任が『源氏物語』を読んでくれていたことを示すために、わざわざこの話を記したのではないか」と指摘しています。

『枕草子』では、「二月つごもりごろに」の段に公任から「少し春ある心地こそすれ」(『日本古典文学全集 枕草子』)という下の句が中宮の御局の所に届き、返答をどうしたら良いのか困っている場面が描かれます。結局、清少納言はわななくわななく(訳:緊張に震え)「空寒み花にまがへてふる雪に」(『日本古典文学全集 枕草子』)という上の句を考えて返答し、中宮の面目を潰すことなく収めました。このような場面から、男性からも一目置かれる才女であった紫式部や清少納言でさえもプレッシャーを感じ、一目を置くような見識のある人であったと考えられます。

次に、『和漢朗詠集』の内容について詳しくみていきましょう。
構成は各々の部立ごとに、基本的には中国の漢詩文佳句・日本の漢詩文佳句・和歌の順に構成され、日本の風土に合わせた部立の場合は中国の漢詩文佳句はなく、日本の漢詩文佳句、和歌で構成されています。内実をみていくと、中国の漢詩文佳句は唐代の詩人が多く、全部で234首収載され、そのうちの6割近くである139首が白居易[xi]の漢詩文佳句となっています。

日本の漢詩文佳句は354首収載され、多く収載されている詩人は多い順に、菅原文時[xii]44首、菅原道真[xiii]38首、大江朝綱[xiv]源順[xv]が共に30首、紀長谷雄[xvi]22首となっています。和歌は216首で、一番多く収載されているのは紀貫之[xvii]の26首です。続いて、凡河内躬恒[xviii]12首、柿本人麻呂[xix]中務[xx]がそれぞれ8首、平兼盛[xxi]7首となっています。

ここでは、中国の漢詩文佳句、日本の漢詩文佳句、和歌を巻上の春の部立からそれぞれ1首ずつ紹介します。(『和漢朗詠集』講談社学術文庫 三木雅博訳注より参照)

  • 中国の漢詩文佳句

    巻上 春
    立春

    柳無気力条先動 池有波文氷尽開 府西池 柳気力無くして条先づ動く 池に波紋有りて氷尽く開けたり 白(白居易)
    <訳>柳はまだなよなよとしているが、その枝は(春の風を受けて)真っ先にそよぎ始める。池にも波紋が起ち。氷は全て解けてしまった。

  • 日本の漢詩文佳句

    巻上 春
    春興
    24
    笙歌夜月家々思 詩酒春風処々情 悦ぶ者多し 笙歌の夜の月の家々の思ひ 詩酒の春の風の処々の情 菅三品(菅原文時)
    <訳>楽器を演奏し歌を歌い、夜の月が照らす家々で人々は春への思いを尽くす。詩を作り、酒を酌み交わし、春の風が吹く到る所で人々は春を愛でる心を陳べる。

  • 和歌

    巻上 春
    立春
    袖ひちてむすびし水の凍れるを春立つ今日の風やとくらむ 紀貫之
    <訳>(去年の夏)袖をぬらしてすくった水が(冬の間)ずっと凍っていたのを、立春の今日の風が解かしていることであろうか。

最後に『和漢朗詠集』について、簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しよう!)

  1. 『和漢朗詠集』は中国と日本の漢詩文佳句の他に何を収載していますか。
  2. 『和漢朗詠集』の作者は誰とされていますか。
  3. 問2の人物との出来事が描かれている日記文学は何ですか。
  4. 『和漢朗詠集』に多く収載されている中国の漢詩文佳句の詩人を答えなさい。
  5. 『和漢朗詠集』に多く収載されている日本の漢詩文佳句の詩人を答えなさい。

→次回は栄華物語について解説します!

(註)
  • [i] 勅撰漢詩集。三巻。嵯峨天皇の命により藤原冬嗣および仲雄王・菅原清公きよとも・勇山いさやま文継・滋野貞主らが撰。818年成立。嵯峨天皇・巨勢識人こせのしきひとら作者二八人、一四八編の詩を収める。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [ii] 〔中国の三公九卿から〕 「公」と「卿けい」の総称。公は太政大臣、左・右大臣、卿は大・中納言、三位以上の朝官および参議。上達部かんだちめ。月卿。卿相。くげ。こうけい。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [iii] (900~970) 平安中期の廷臣。摂政・関白。忠平の子。小野宮殿と称。諡号しごう、清慎公。安和の変によって左大臣源高明を失脚させ、藤原氏繁栄の基礎をつくった。有職小野宮流の祖。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [iv] 924‐989(延長2‐永祚1)平安中期の廷臣。父は実頼,母は藤原時平女。公任の父。963年(応和3)参議,以後中納言,権大納言を経て971年(天禄2)右大臣,977年(貞元2)左大臣となった。同年弟藤原兼家と不和であった関白兼通は弟との対抗上,強引に外戚でない頼忠を後任に推挙して没した。このため関白となり,翌年太政大臣を兼ねた。女遵子は円融天皇の皇后となったが子に恵まれなかった。花山朝でも外戚でない関白をつとめたが,986年(寛和2)一条天皇即位とともに関白をやめ太政大臣のみを帯した。『平凡社 世界大百科事典』
  • [v] 〘名〙 朝儀、先例を取り扱う有職家(ゆうそくか)の流派。小野宮実頼による礼式、故実を継承するもの。『日本国語大辞典』
  • [vi] 〘名〙 有職故実の一流。藤原師輔を祖とする。『日本国語大辞典』
  • [vii] (966~1027) 平安中期の廷臣。摂政。兼家の子。道隆・道兼の弟。法名、行観・行覚。通称を御堂関白というが、内覧の宣旨を得たのみで正式ではない。娘三人(彰子・姸子・威子)を立后させて三代の天皇の外戚となり摂政として政権を独占、藤原氏の全盛時代を現出した。1019年出家、法成寺を建立。日記「御堂関白記」がある。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [viii] (973頃~1014頃) 平安中期の女流作家・歌人。藤原為時の女むすめ。はじめ藤式部と呼ばれる。藤原宣孝と結婚、大弐三位を生むがまもなく夫と死別。その後、源氏物語の執筆を始める。才媛のほまれ高く、一条天皇中宮彰子(上東門院)に仕え、「白氏文集」を進講。藤原道長や藤原公任らとの交流もあった。ほかに「紫式部日記」「紫式部集」などの著がある。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [ix] 紫式部と共に平安中期を代表する女流文学者。生没年、本名未詳。父清原元輔は「後撰集」撰者、曽祖父深養父ふかやぶも著名な歌人。一条天皇中宮(のち皇后)定子に仕え、清原姓に因んで清少納言と呼ばれた。和漢の学に通じた才女として名を馳せ、「枕草子」を著す。家集に「清少納言集」がある。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [x] 『和漢朗詠集』講談社学術文庫 三木雅博訳注より参照
  • [xi] (772~846) 中国、中唐の詩人。号は香山居士また酔吟先生、字あざなは楽天。官吏の職にあったが、高級官僚の権力闘争にいや気がさし、晩年は詩と酒と琴を三友とする生活を送った。その詩は平易明快で、「長恨歌ちようごんか」「琵琶行」などは広く民衆に愛され、日本にも早くから伝わって、平安朝文学などに大きな影響を与えた。「秦中吟」「新楽府しんがふ」など、社会や政治の腐敗を批判した社会詩もある。詩文集「白氏文集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xii] (899~981) 平安中期の学者。道真みちざねの孫。菅三品と称される。文章博士・従三位。大江朝綱と並ぶ当代の高才で、その詩文は「和漢朗詠集」「本朝文粋」などに見える。954年村上天皇に「意見封事三箇条」を提出。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xiii] (845~903) 平安前期の学者・政治家。是善の子。菅公かんこう・菅丞相しようじようと称される。宇多・醍醐両天皇に重用され、文章博士・蔵人頭などを歴任、右大臣に至る。この間894年遣唐大使に任命されたが建議して廃止。901年藤原時平の讒訴ざんそで大宰権帥に左遷、翌々年配所で没した。性謹厳にして至誠、漢詩・和歌・書をよくし、没後学問の神天満天神としてまつられた。「類聚国史」を編し、「三代実録」の編纂へんさん参与。詩文集「菅家文草」「菅家後集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xiv] (886~957) 平安中期の学者。音人おとんどの孫。後江相公と称される。参議。村上天皇の勅を受けて「新国史」「坤元録」を編纂へんさん。著「後江相公集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xv] (911~983) 平安中期の学者・歌人。嵯峨源氏。三十六歌仙の一人。梨壺の五人の一人として万葉集の訓釈(古点)ならびに「後撰和歌集」の撰進に参加。漢詩文は「扶桑集」「本朝文粋」などに散見。著「倭名類聚鈔」、家集「源順集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xvi] (845~912) 平安前期の学者・漢詩人。通称、紀納言。文章博士・大学頭・中納言。菅原道真に学び、その才を愛された。「延喜格」の撰に参加。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xvii] (866?~945?) 平安前期の歌人・歌学者。三十六歌仙の一人。御書所預・土佐守・木工権頭。官位・官職に関しては不遇であったが、歌は当代の第一人者で、歌風は理知的。古今和歌集の撰者の一人。その「仮名序」は彼の歌論として著名。著「土左日記」「新撰和歌集」「大堰川おおいがわ行幸和歌序」、家集「貫之集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xviii] 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。紀貫之と並ぶ延喜朝歌壇の重鎮。古今和歌集の撰者の一人。生没年未詳。家集「躬恒集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xix] 《万葉集》の歌人。生没年,経歴とも不詳ながら,その主な作品は689‐700年(持統3‐文武4)の間に作られており,皇子,皇女の死に際しての挽歌や天皇の行幸に供奉しての作が多いところから,歌をもって宮廷に仕えた宮廷詩人であったと考えられる。人麻呂作と明記された歌は《万葉集》中に長歌16首,短歌61首を数え,ほかに《柿本人麻呂歌集》の歌とされるものが長短含めて約370首におよぶ。質量ともに《万葉集》最大の歌人で,さらにその雄渾にして修辞を尽くした作風は日本詩歌史に独歩する存在とみなされる。『平凡社 世界大百科事典』
  • [xx] 平安中期の女流歌人。三十六歌仙の一人。宇多天皇の皇子中務卿敦慶あつよし親王の王女。母は伊勢。源信明さねあきらの妻。「後撰和歌集」以下の勅撰集に六九首入集。家集に「中務集」がある。生没年未詳。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [xxi] (?~990) 平安中期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇の玄孫。駿河守。後撰集時代有数の歌人。「天徳四年内裏歌合」の詠者。家集に「兼盛集」がある。『三省堂 大辞林 第三版』

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参考文献