『堤中納言物語』は、数少ない平安時代の短編物語集です。内容は、「花桜折る少将」「このついで」「虫めづる姫君」「ほどほどの懸想」「逢坂越えぬ権中納言」「貝合せ」「思はぬ方に泊りする少将」「はなだの女御」「はいずみ」「よしなしごと」という全10編の短編と、「冬ごもる空のけしきに」から始まる物語の発端と思しき約240字の断章から成ります。
成立と作者については、それぞれの短編ごとに異なるのではないかと考えられています。短編の一つである「逢坂越えぬ権中納言」に関しては、「類聚歌合[i]」8巻に収録されている「六条斎院物語合」の中に「歌合の場に小式部[ii]から皇女ばい子内親王へ献上された」と記述されていることから、作者は小式部であると考えられています。ちなみに、「六条斎院物語合」とは後朱雀天皇[iii]の皇女ばい子内親王[iv]が賀茂斎院[v]で催した歌合のうち、1055年(天喜3年)5月3日に行われた物語題歌合です。
その他の短編のうち、「花桜折る少将」「ほどほどの懸想」「貝合せ」は『風葉和歌集』に和歌がとられています。『風葉和歌集[vi]』の成立は1271年(文永8年)とされ、「逢坂越えぬ権中納言」が提出されたとする1055年(天喜3年)からかなりの年月が空いており、全ての短編が同じ作者の手によるものではないと考えられています。
補足ですが、和歌をとることは「本歌取り」といい、和歌の修辞法の一つです。典拠のしっかりした和歌の一部を取って新たな歌を詠み、和歌に広がりを持たせる技法です。引用した和歌を本歌といいます。
『堤中納言物語』の短編の一つである「虫めづる姫君」は宮崎駿の長編アニメ『風の谷のナウシカ』のヒロイン像に影響を与えたとされています。虫を愛でる姫君の話という平安時代の物語の傾向とは違う異色作となっています。そんな「虫めづる姫君」の冒頭を紹介したいと思います。
〔一〕
蝶めづる姫君の住みたまふかたはらに、按察使の大納言の娘、心にくくなべてならぬさまに、親たちかしづきたまふこと限りなし。
この姫君ののたまふこと、「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」とて、よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて、「これが、成らぬさまを見む」とて、さまざまなる籠箱どもに入れさせたまふ。中にも「鳥毛虫の、心深きさましたるこそ心にくけれ」とて、明け暮れば、耳はさみをして、手のうらにそへふせて、まぼりたまふ。<訳>
蝶の好きな姫君の住んでおられる隣邸に、按察使の大納言の姫君の邸がある。奥ゆかしく並み並みならず仕立てて、両親がこの世のものならず大切に育てておられる。
この姫君のおっしゃることが変わっている。「世の人々が。花よ蝶よともてはやすのは、全くあさはかでばからしい了見です。人間たるもの、誠実な心があって、物の本体を追求してこそ、心ばえもゆかしく思われるというものです」とおっしゃって、いろいろな虫の恐ろしそうなのを採集して、「これが変化する様子を鑑賞しよう」と言うので、様々な観察用の虫籠などにお入れさせになる。なかでも「毛虫が思慮深そうな様子をしているのが奥ゆかしい」とおっしゃって、朝晩額髪をおかみさんよろしく耳にかきあげ、毛虫を手のひらの上で愛撫して、あかず見守っておられる。
若い女房たちは、恐れをなし途方にくれるので、男の童で物おじせず、取るに足らぬ身分の連中を身近に呼び寄せ、箱の虫を取り出させ、虫の名を問い尋ね、新種の虫には名をつけて、おもしろがっておられる。
(小学館 日本古典文学全集『堤中納言物語』より参照)
この「虫めづる姫君」と関連して引き合いに出されるのが、藤原宗輔[vii]が蜂を愛したという事実譚です。『十訓抄[viii]』『今鏡[ix]』『古事談[x]』などに記載があります。
最後に、『堤中納言物語』の簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しよう!)
- 『堤中納言物語』に出てくる短編を一つ答えなさい。
- 「逢坂越えぬ権中納言」の作者とされているのは誰ですか。
- 「花桜折る少将」「ほどほどの懸想」「貝合せ」の和歌が取られている和歌集は何ですか。
- 「虫めづる姫君」の主人公はどのような主人公か説明しなさい。
- 「虫めづる姫君」に影響を受けたアニメは何ですか。
→次回は更級日記について解説します!
(註)
- [i] 歌合を主催者の身分別に類別集成したもの。『歌合類聚』ともいわれる。平安中・後期に二度にわたって編集され、それぞれ集成された巻数に従い「十巻本」「廿巻(にじっかん)本」といわれている。この両集成の現存する原本および転写本により、平安後期までの歌合は、ほぼ全貌(ぜんぼう)が確かめられる。『十巻本類聚歌合』は、9世紀末の『民部卿(みんぶのきょうの)(行平(ゆきひら))家(いえの)歌合』から1056年(天喜4)『皇后宮(きさいのみやの)(寛子)歌合』に至る46の歌合を10巻に類別編集する。編集は後冷泉(ごれいぜい)天皇の在世中(1068以前)といわれ、編集主体は関白藤原頼通(よりみち)、源経信(つねのぶ)らが関与したと思われる。『廿巻本類聚歌合』は、12世紀初め堀河(ほりかわ)天皇の意図に基づく『和歌合抄(わかあわせしょう)』10巻の編集に始まり、『古今歌合』に増補され、ほぼ1127年(大治2)に『類聚歌合』20巻として整備編集されたと推定できる。前記の『民部卿家歌合』から1126年『摂政(せっしょう)左大臣(忠通(ただみち))家歌合』に至る200以上の歌合を20巻に編集した。この編集主体者は『和歌合抄』以来太政(だいじょう)大臣源雅実(まさざね)と推定され、摂政藤原忠通も関係深く、実務には源俊頼(としより)らが参加したといわれる。小学館『日本大百科全書』
- [ii] 平安時代中期の女流物語作者。『堤中納言物語』のうちの『逢坂越えぬ権中納言』の作者とされる。『六条斎院物語合』 (1055) のなかに『逢坂越えぬ権中納言』の名と「きみがよの」の和歌をあげ,「こしきぶ」と記していることによる。しかし,この「小式部」の伝は未詳で,従来,下野守義忠女とみる説や,紀伊守源致時女従三位隆子とみる説があるが,それぞれ問題があって定めがたい。『ブリタニカ国際大百科事典 』
- [iii] (1009~1045) 第六九代天皇(在位1036~1045)。名は敦良あつなが。一条天皇の第三皇子。母は藤原道長の女むすめ上東門院彰子。在位中は藤原氏の全盛期で、頼通が関白であった。三省堂『大辞林 第三版』
- [iv] 後朱雀(ごすざく)天皇第二皇女。母は中宮子(げんし)女王で、祐子(ゆうし)内親王の同母妹にあたる。1046年(寛徳3)3月、8歳で賀茂斎院(かものさいいん)に卜定(ぼくじょう)、1058年(天喜6)4月病により退下、六条斎院とよばれた。幼時より和歌を好み、永承(えいしょう)(1046~53)初年以降、生涯に二十五度の歌合(うたあわせ)を催行、それらには上東門院彰子(しょうし)、皇后寛子(かんし)、祐子内親王家各所属の女房が自由に交流参加、一つの文学サロンを形成していた。このうち1055年5月3日、18編の物語を新作、作中人物の歌を合わせた「六条斎院物語歌合」は文学史上有名である。「氷魚(ひを)のよる網代(あじろ)にかかる白波は水にふりつむ雪かとぞ見る」(承暦(じょうりゃく)二年十月十九日六条斎院歌合)など繊細な詠風である。小学館『日本大百科全書』
- [v] 賀茂神社に奉仕する未婚の皇女もしくは王女。斎王(さいおう∥いつきのみこ),賀茂斎院ともいう。伊勢神宮の斎宮にならって設置された。平凡社『世界大百科事典』
- [vi] 歌集。二〇巻(現存本は末尾二巻が欠)。藤原為家編かといわれるが未詳。1271年成立。亀山天皇の母后姞子よしこの命により、当時存在した作り物語の中から約千四百首(現存本)の歌を選び、部立てを設け、詞書ことばがきと詠者名を添えて収めたもの。散逸物語の研究資料として貴重。三省堂『大辞林 第三版』
- [vii] (877~933) 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。従三位中納言兼右衛門督。邸が賀茂川の堤近くにあったので堤中納言と呼ばれる。「古今和歌集」以下の勅撰集に五五首入集。著「聖徳太子伝暦」、家集「兼輔集」三省堂『大辞林 第三版』
- [viii] 説話集。三巻。菅原為長編、六波羅二﨟左衛門入道編などの説があるが未詳。1252年成立。一〇項に分けて、中国説話を含む二百八十余の教訓的な説話を収録したもの。先行説話集から伝承した話が多い。じっきんしょう。三省堂『大辞林 第三版』
- [ix] 歴史物語。一〇巻。作者未詳。藤原為経説など諸説がある。1170年成立。「大鏡」のあとを受け、大宅世継の孫娘が語る形で、藤原摂関時代から院政期にかけての歴史を描いたもの。後一条天皇から高倉天皇まで、一三代146年間を紀伝体で記す。四鏡の一。小鏡。続世継。三省堂『大辞林 第三版』
- [x] 説話集。六巻。源顕兼編。1212年から15年の間に成立。宮廷や貴族、僧侶の説話を多く収録。先行文献の引用が多い。他の説話集への影響も少なくなく、説話の伝承上重要な作品。三省堂『大辞林 第三版』
- アイキャッチはAmazon HPより。坂田靖子著『ワイド版 マンガ日本の古典7―堤中納言物語』、中央公論新社、2020年。
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