現在の中国である、ユーラシア大陸東部の東アジアと呼ばれる地域では、古くからメソポタミア文明やエジプト文明、インダス文明に並ぶ大文明が築かれていました。長江や黄河といった大河の流域で築かれた文明は後に大国の形成の元となり、今日に及ぶ中国の文化の礎となっています。
また中国社会の形成においては、多種多様な周辺民族、ヨーロッパとの関わりにも注目する必要があります。国内外の歴史の流れをしっかりと整理して、古代中国を得意分野にしましょう!
始皇帝の政策と後漢滅亡までの政治と社会
Contents
秦の統一
前403年より始まった戦国時代には、戦国の七雄(燕・斉・趙・魏・韓・秦・楚)と呼ばれる大国が争い合ったが、この分裂期は約600年間続くこととなった。その中で、六国を平定し、前221年に中国全土を統一したのが西方の有力国家、秦(前8世紀~前206年)であった。
始皇帝の政治
前221年、秦王の政(始皇帝)は最後に山東の斉を征服して、六国を滅ぼし中国を統一すると、「煌々たる上帝」を意味する「皇帝」を名乗り、「朕」と自称した。
始皇帝の時代には国内では厳しい中央集権体制が敷かれ、対外的にも領土拡大や匈奴討伐などを目標とする政策が行なわれた。
<始皇帝の統一政策>
- 官僚制の整備
丞相(行政の最高責任者)、大尉(最高軍事顧問)、御史大夫(副丞相)を設置し、行政・軍事・監察の権力分立を行った。 - 郡県制
全国を36の郡に分け、その下に県を置いて、中央から官僚を派遣して全国を肯定の支配下に置いた。このような制度を郡県制と呼ぶ。郡県制は後に48郡にまで広がり、より一層の中央集権化が図られた。 - 度量衡(長さ・容積・重さ)、貨幣(半両銭)、文字(小篆)の統一
- 焚書坑儒
始皇帝が、丞相であった法家の李斯の提言に基づき行った政策。思想統制のため、農業・医薬・卜筮以外のすべての書物を焼き、自らに逆らう学者約460名を穴埋めにした。中でも多くの人が弾圧の対象となった儒家たちは、この事件を「焚書坑儒」と名付けた。 - 首都咸陽への富豪の強制移住
- 「長城」の建設
始皇帝は遊牧国家匈奴の侵入を防ぐため、30万の軍隊を動員して「万里の長城」を建設した。匈奴に対しては、前215年に蒙恬が討伐を行っている。 - 南方に南海・桂林・象の3郡を設置
南方(現在の広東省)への軍隊派遣、郡の設置を行った。
〔秦 地図〕
(世界の歴史まっぷHPより)
秦の滅亡
始皇帝時代には人々の戸籍が細かに管理され、法律に従えないものは厳しく罰せられた。秦代の墓から発見された竹簡にはその罰則の厳しさが示されている。また、全国統一事業のために物資や人員が総動員され、過酷な状況下に置かれた国民の強圧的な政治に対する不満は膨らんでいった。
その結果、始皇帝の死後3年で秦は滅亡し、15年間の秦の時代は幕を閉じることとなる。始皇帝の死の翌年(前209年)に起こった中国初の農民反乱、陳勝・呉広の乱では、陳勝が呉広とともに長城警備に動員されていた農民たちを率いて挙兵した。この反乱は、項羽や劉邦らの挙兵を呼び起こした。
※「王侯将相いずくんぞ種あらんや」:
陳勝・呉広の乱の際に陳勝が唱えたとされる言葉。「王や、諸侯、将軍、宰相になるのにどうして生まれが関係あろうか。」の意。
前漢時代(前202年~後8年)の政治
秦末に、劉邦は垓下の戦いで項羽に勝利し漢王朝を建てた。それから後8年に王莽が新を建国するまでの約200年間を前漢と呼ぶ。前漢時代では劉邦、景帝、武帝の政治を押さえておきたい。
前漢の発展期
<高祖劉邦の政治>
- 前202年に前漢の皇帝となり、新たな都として長安(現在の西安)を建設した。
- 郡国制の実施
秦時代の郡県制と封建制を組み合わせた郡国制を布いた。郡県制の下では、全国の約3分の1の地域が中央直轄地として皇帝の支配化に置かれ、その他の封国ではそれぞれ独自の政治が行われた。 - 皇族の強化
<景帝の政治>
景帝は、劉邦の死後、呂公、文帝を経て皇帝となり、前157年から前141年まで前漢を治めた。
- 匈奴との和親の強化
文帝時代に結ばれた匈奴との和親を強化し、公主(皇族の女性)を匈奴の単于(君主)に嫁がせた。 - 呉楚七国の乱の鎮圧
前154年に起こった諸王の反乱に勝利し、中央集権化を一気に拡大させた。
〔前漢 地図〕
前漢の全盛期
景帝の息子、武帝の時代に前漢は全盛期となり、皇帝権力は最高の状態であった。
<武帝の政治>
[対外政策]
- 領土拡大政策
- 張騫を西域の大月氏に派遣
- 衛青や霍去病の匈奴討伐 →匈奴、東西に分裂
- 大月氏や烏孫と結んで匈奴に対抗
- 李公利の大宛(フェルガナ)遠征 →汗血馬と呼ばれる名馬を獲得
- 南越征服 →交趾郡、日南郡、南海郡などの南海9郡を設置
- 衛氏朝鮮征服 →楽浪郡、玄菟郡、臨屯軍、真蕃郡の朝鮮4郡を設置
[国内政策]
- 財政政策
領土拡大に伴う軍事費の増大に対応するための経済政策が行われた。これらは当時の官僚であった桑弘羊の意見を取り入れたものであった。- 塩・酒・鉄の専売
- 銅銭(五銖銭)の発行
- 均輸法・平準法の制定
銅銭発行に伴うインフレを防ぐため、流通や価格を国が統制するシステムが設けられた。- 均輸法:
特産物を貢納させ、その物資が不足している地域に転売する物価調整法。 - 平準法:
物資が豊富な時に貯蔵し、物価が上がると売り出す物価抑制法。
- 均輸法:
- 儒教の国教化
董仲舒の献策により五経博士という官職が設置され、儒教が官学となった。儒教の経典である五経は時代とともに変化してきたが、当時重視されていたのは『詩経』、『書経』、『儀礼』、『春秋』、『易経』であった。
前漢の衰退
こうした政策によって、武帝の時代に中国は最大版図となった。また、それとともに中国人としての民族意識もより強固なものとなり、司馬遷の『史記』のような中国人の歴史書も生まれた。
しかし、前漢も次第に民衆からの信頼を失ってゆく。例えば、儒教は武帝によって国教化されたが、政治そのものに儒教の思想が正しく反映されたわけではなかった。後の哀帝の時代には、大土地所有を制限する法律である限田法が発布され、貧富の格差を防ぐ姿勢が見られたものの、それが徹底されることはなかった。こうした中で新たに皇帝となり、前漢を滅ぼしたのが外戚の王莽であった。
新・後漢時代
新 都:長安
前漢の外戚王莽は漢から皇位を奪い、新を建国した。王莽は儒教の理想を実現するため、儒教経典の中で理想の土地制度とされている周の井田制に倣った王田制を施行し、土地の国有化を図った。また、奴婢の売買も禁止した。
一方で、こうした王莽の改革はあまりに急進的だったため経済へ悪影響が生まれ、各地で農民反乱が起きた。後18年から27年まで続いた赤眉の乱の反乱軍や、緑林軍は一大勢力となり、王莽はこうした反乱の結果、緑林軍によって殺された。このような、反乱を平定し再び全国統一を果たしたのが、南陽の豪族・劉秀であった。
後漢の誕生
劉秀は25年に光武帝として即位すると、漢王朝を再興し後漢を建てた。光武帝は、都を洛陽に移し、儒教の普及に努めた。彼の優れた政策により、儒教は国教として大いに栄えた。後漢は劉秀に続く、明帝、章帝、和帝の時代に最盛期となり、人口は前漢最盛期と同じくらいにまで増えた。
<後漢と諸外国>
- 南匈奴の征服
東西分裂後、さらに南北に分裂して勢力を弱めていた南匈奴を服属させた。 - ベトナム交趾郡で起きた、徴姉妹の反乱を鎮圧。
- 57年、倭の奴国(日本)の使者に、「漢委奴国王」印を授ける。
- 班超が西域都護として西域経営に活躍する。
〔班超〕
- 甘英を大秦(ローマ帝国)に派遣する。
- 166年、大秦王安敦(マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者が日南郡に来る。 ※ローマと漢の交易は東南アジアを介して行われた。
後漢の滅亡
後漢末期には宦官(後宮に仕える去勢された男性)と外戚(皇后の親族)の対立が激化し、社会の混乱を招いた。その中で、人々は宗教結社に世の救済を求めるようになると、いよいよ漢王朝の権威復活は叶わなくなり、反乱により漢帝国は実質的に滅亡する。
<政界の混乱>
漢王朝では、徳行がある優れた人物を地方長官が朝廷に推薦するという官吏登用法が採られていたが、この方法を郷挙里選という。後漢に入ると、儒教をより重視する政策が取られるのに伴い、「孝廉」などの儒教的徳目が選考基準として設けられるようになっていった。そうした中で、豪族の勢力が拡大した。
2世紀後半になると、自然災害の多発と周辺民族との戦争により、後漢は急速に力を弱めた。これにより、農民の小作人化が余儀なくされ、豪族の台頭を招いた。
こうした社会の混乱の中で、以前から見られた外戚と宦官の対立がより一層激しくなり、外戚と皇帝の対立に発展すると、皇帝は宦官と手を組み外戚の弾圧を図った。166年、桓帝の時代には、宦官と対立関係にあった儒家官僚約200人を終身禁固処分とした。この事件は「党錮の禁」と呼ばれ、政界の乱れと社会の混乱が加速した。
<宗教結社の流行>
社会の混乱の中で、宗教への信奉が人々の間に広まった。中でも、とりわけ信者を拡大したのが今日の河北省で張角が起こした太平道と、四川省で張陵が起こした五斗米道であった。こうした宗教結社は、政争で混乱する朝廷が実現しえなかった、貧困状態で流浪する人々の個人による救済を可能にし、儒教的な血縁・地縁を越えた結びつきを目指した。
- 太平道:皇帝や老子を信奉する教団。符水や呪文による治病を説いた。
- 五斗米道:祈祷による治病を説き、信者に五斗(約10ℓ)の米を納めさせた。また、流浪する貧者に米や肉を与えるなどの救済活動を行った。
184年、張角は朝廷の教団への弾圧に対し、「蒼天已に死す、黄天当に立つべし」をスローガンに掲げ、数十万の信徒と共に中国初の宗教戦争である黄巾の乱を起こした。これにより、漢王朝は崩壊することとなった。
漢代の文化
- 思想と科学
漢王朝では、法家が依然力を持つ一方で、道家思想や儒家思想も取り入れられるようになった。後漢に入ると儒家思想は天意との関係を深め、天意を予言する神秘的な儒家思想である讖緯思想や、五行思想が流行した。一方で、天意に関する科学的なアプローチも行われ、張衡によって渾天儀(天体観測器)や地動儀(地震計)が作られた。 - 訓詁学の発展
経典の字句解釈を重んじる訓詁学の発展により、経典に注釈を加えられるようになった。後漢末の鄭玄は以降の儒学の教義に大きな影響を及ぼした。 - 蔡倫による製紙法の改良・紙の普及
- 文字(隷書)の統一
- 中国の歴史書の誕生
- 司馬遷 『史記』:前漢。本紀と列伝を中心とする、紀伝体と呼ばれる書式が採用されている。
- 班固 『漢書』:後漢。
- 許慎 『説文解字』
確認問題
- 彩陶を特色とする仰韶文化は誰によって発見されたか。
- 殷に都の遺跡は何と呼ばれているか。
- 『孟子』によれば、周代には何と呼ばれる土地制度が行われていたか。
- 戦国の七雄をすべて答えよ。
- 秦王の政は何年に中国を統一したか。
- 始皇帝が匈奴討伐のために派遣した人物の名を答えよ。
- 武帝の経済政策は誰の意見を取り入れたものか。
- 184年、太平道の張角が率いて起こした農民反乱は何か。
- 紀伝体は4部構成からなる歴史書の書式であるが、本紀、表、志とあと一つは何か。
- 後漢の和帝の時代に、製紙法を改良したのは誰か。
・・・・・・・・・
(解答)
- アンダーソン
- 殷墟
- 井田制
- 秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙
- 前221年
- 蒙恬
- 桑弘羊
- 黄巾の乱
- 列伝
- 蔡倫
→続きはこちら 古アメリカ文明とは?
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参考資料
- 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、山川出版社、2018年
- 浜島書店編集部編『ニューステージ世界史詳覧』、浜島書店、2011年
- 世界の歴史まっぷ
- 最終閲覧日2020/4/28
- いらすとや
- 最終閲覧日2020/4/28
こんにちは。
私は現役大学生ライターとして中高生向けの学習関係の記事を書いています。大学では美術史を専攻し、主に20世紀前半の絵画を研究の対象としており、休みの日は美術展に行くことが好きです。趣味は古い洋楽を聴くことです。中学高校時代は中高一貫の女子校に通い、部活と勉強尽くしの6年間を送りました。中学入学当初は学年でも真ん中より少し上程度の学力でしたが、中学2年生の夏から勉強に真剣に向き合うようになり、そこから自分の勉強法を見直し、試行錯誤を重ねる中で勉強が好きになりました。そうした経験も踏まえ、効率的な勉強の仕方やモチベーションの保ち方などをみなさんにお伝えできると思います。また、記事ではテストに出る内容だけでなく知識として知っていると面白い内容もコラムとして載せています。みなさんが楽しく学習する手助けとなれれば幸いです。