平安末期から鎌倉にかけて末法思想が人々の間で広まっていました。末法思想とは釈迦の入滅後、正法、像法、末法と順に正しい教えを行うものから、行っていても偽物になり、末法の世が訪れるという教え、予言です。人々は今が末法の世であり、現世に期待するのではなく来世に浄土に行けることを期待し始めました。
当時の主流の仏教は天台宗と真言宗でしたが貴族中心の限られたものでした。平安末期から鎌倉時代へと武士の世になるにつれ新たな仏教の宗派が成立し始めました。鎌倉仏教の特徴は平安時代の仏教のように厳しい修験道ではなく、念仏を唱えたりすることを重要視していること、貴族中心から武士・庶民へと広がっていったことです。
では鎌倉仏教の宗派を一つずつ詳しくみていきたいと思います。
浄土宗
開祖:法然 寺院:知恩院 著書:『選択本願念仏集』
法然は誰でも「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば極楽浄土に往生できるという、専修念仏の教えを説きました。平安時代から続く当時の仏教は難解な教義を学び、厳しい戒律を守り、修行することが極楽浄土に往生するために必要とされていました。経済的負担も多く、学問や知識が必要であり、仏教の担い手は専ら貴族中心でした。
しかし、法然の説いた教えは経済的負担もないただ念仏を唱えるという日常においてもできることでした。よって貴族だけでなく、武士や庶民にも少しずつ広まるきっかけとなっていったのでした。開祖は法然となってはいますが、法然自身は従来の教えを批判し新たな宗派を開く意志はありませんでしたが、危険視され讃岐に流されました。その後、法然の教えを門弟らが教え広め浄土宗となっていきました。
浄土真宗
開祖:親鸞 寺院:本願寺 著書:『教行信証』『歎異抄』
親鸞は法然の門弟として学び、法然が讃岐に流された際、親鸞は越後に流されました。罷免後も同地にとどまって農民らに布教をしてまわりました。罪深い悪人こそが、阿弥陀仏が救おうとする対象であるという「悪人正機説」を説きました。法然同様新たな宗派を開く意志はなく、門弟らによって浄土宗を更に発展させた浄土真宗が確立されていきました。
臨済宗
開祖:栄西 寺院:建仁寺 著書:『興禅護国論』
(建仁寺)
禅宗は坐禅によって悟りに達しようという教えです。栄西が初めて日本で禅宗の教えを広めました。これが臨済宗です。座禅をし、公案(師から与えられた問題)を考えぬいて悟りに達する臨済宗の教えは武士の気風とあい、鎌倉幕府から重宝されました。北条時頼は鎌倉に建長寺を建て、京都から蘭渓道隆を招きました。北条時頼は円覚寺を建て宗から無学祖元を招きました。
鎌倉時代は多くの臨済宗の寺院が建てられました。鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)、京都五山(天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)がその特徴的な寺院です。
曹洞宗
開祖:道元 寺院:永平寺 著書:『正法眼蔵』
(永平寺)
栄西の弟子・明全のもとで学んだ道元は公案による他力で悟りを開くのではなく、ひたすら坐禅に打ち込み自力で悟りに達する只管打坐を説き、永平寺で門弟を育てました。
日蓮宗
開祖:日蓮 寺院:久遠寺 著書:『立正安国論』
日蓮は天台宗、中でも特に法華経について学び、日蓮宗を開きました。日蓮は「何妙法蓮華経」という題目を唱えることで仏になれると説きました。日蓮は他の宗派に対して激しく攻撃したため、2度流罪(伊豆・佐渡)になった。日蓮は鎌倉を去り、甲斐の身延山で弟子の育成にあたりました。
時宗
開祖:一遍 著書:『一遍上人語録』
法然の孫弟子である聖達のもとで学んだ一遍は「南無阿弥陀仏」の名号を唱えれば誰でも極楽往生できると考えました。熊野に詣でた際に「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記した名号の札を配るよう夢のお告げを受けました。以降各地を周り踊念仏(名号を節をつけて唱えながら踊る)をしながら札を配り歩きました。一遍は遊行上人と呼ばれ、一遍に付き従う人々や一遍の教えを時宗といいました。
まとめ
宗派 |
開祖 |
開宗年 |
著書 |
寺院 |
浄土宗 |
法然 |
1175 |
選択本願念仏集 |
知恩院(京都) |
浄土真宗 |
親鸞 |
1224 |
教行信証、歎異抄 |
本願寺(京都) |
臨済宗 |
栄西 |
1191 |
興禅護国論 |
建仁寺(京都) |
曹洞宗 |
道元 |
1227 |
正法眼蔵 |
永平寺(福井) |
日蓮宗 |
日蓮 |
1253 |
立正安国論 |
久遠寺(山梨) |
時宗 |
一遍 |
1274 |
一遍上人語録 |
清浄光寺(神奈川) |
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