日本人なら知っておきたい文学作品!”あはれなる”日記文学『紫式部日記』

紫式部日記』は、『源氏物語』の作者とされる紫式部の日記です。全2巻からなり、成立時期は諸説ありますが、『紫式部日記』の最後の日時が寛弘7年1010年)1月15日であるため、それ以降に書かれたのではないかと考えられています。日記に書かれている時期は寛弘5年(1008年)の秋から寛弘7年(1010年)の正月までの3年間ですが、その間の繁雑と簡略は甚だしく、中でも多く筆を割いているのは寛弘5年(1008年)の記事であり、この期間のものは全体の3分の2を占めています。

内容は以下のように大きく3つに分けることが出来ます。

  1. 中宮出産から御堂詣戴餅の儀などの行事盛儀(中宮と一条天皇の間に出来た若宮)
  2. 同僚女房に対する批評(和泉式部、赤染衛門、清少納言ら)
  3. 回想述懐

『紫式部日記』の内容に入る前に、作者とされる紫式部について解説します。
紫式部の父は藤原為時[i]祖父は堤中納言兼輔[ii]であり、三十六歌仙[iii]の一人に数えられている歌人です。紫式部の母は藤原為信の娘で、紫式部の若い頃に早世したとされています。紫式部は長保元年(999年)、27歳の頃に藤原宣孝[iv]と結婚します。藤原宣孝は紫式部と結婚する以前の天元5年(992年)に左衛門尉[v]で蔵人[vi]を兼ね、その後備後・周防・山城・筑前・備中の国司[vii]を歴任しています。結婚の翌年、藤原宣孝は左衛門権佐になり、一女賢子が産まれています。しかし、藤原宣孝の病死により、僅か3年で結婚生活で幕をとじます。寡婦となった紫式部は夫の死の数年後、娘彰子の後宮に才華のある女房を集めていた道長の目に留まり、宮仕えすることになります『紫式部日記』の本文中から伺えるように紫式部の性格はかなり内向的であると考えられ、宮仕えに対しても消極的であったのではないかと考えられています。

次に、『紫式部日記』の内容についてみていきたいと思います。
ここでは、先に述べた内容を3つに分けたうちの1つ、同僚女房に対する批評の部分を引用します。(『小学館 日本古典文学全集 紫式部日記』より参照)

四八]和泉式部・赤染衛門・清少納言批評

 和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見えはべるめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、うたのことわり、まことの歌よみざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠みそへはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。はづかしげの歌よみやとはおぼえらず。

<訳>
和泉式部という人は実に趣深く手紙をやりとりしたものです。しかし、和泉には感心しない面があります。気軽に手紙を走り書きした場合、その方面の才能のある人で、ちょっとした言葉にも色艶が見えるようです。和歌はたいそう興味深いものですよ。古歌の知識や歌の理論などは、本当の歌よみというふうではないようですが、口にまかせて詠んだ歌などに必ず興ある一点の目にとまるものが詠み添えてあります。それほどの歌を詠む人でも、他人の詠んだ歌を非難したり批評したりしているのは、さあ、それほど和歌に精通してはいないようです。口をついて自然にすらすらと歌が詠み出されるらしい、と思われるたちの人なのですね。こちらがきまり悪くなるほどのすばらしい歌人とは思えません。

 丹波の守の北の方をば、宮、殿などわたりには、匡衡衛門とぞいひはべる。ことにやむごとなきほどにならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌よみとて、よろづにつけて詠みちらさねど、聞こえたるかぎりは、はかなきをりふしのことも、それこそはづかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠みいで、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくもおぼえはべるわざなり。

<訳>
丹波の守の北の方を、中宮さまや殿などのあたりでは匡衡衛門といっています。歌は格別に優れているほどではありませんが、実に由緒ありげで、歌人だからといって何事につけても歌を詠み散らすことはしませんが、世に知られている歌はみな、ちょっとしたことでも、それこそこちらが恥ずかしくなるような詠みぶりです。それにつけても、どうかすると上の句と下の句が離れてしまいそうな腰折れがかった歌を詠み出して、何とも言えぬ由緒ありげなことをしてまでも、自分こそ上手な歌よみだと得意になっている人は。憎らしくもまた気の毒にも思われるというものです。

  • 清少納言[x]

 清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみはべれば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなりぬにはべるべし。そのあだなりぬる人のはて、いかでかはよくはべらむ。

<訳>
清少納言は実に得意顔をして利口ぶって漢字を書きちらしております程度も、よく見ればまだひどく足りない点がたくさんあります。このように人より特別優れようと思い、またそう振舞いたがる人は、きっと後には見劣りがし、ゆくゆくは悪くばかりなってゆくものですから、いつも風流ぶってそれが身についてしまった人は、まったく寂しくつまらないときでも、しみじみと感動しているようにふるまい、興あることも見逃さないようにしているうちに、しぜんとよくない浮薄な態度にもなるのでしょう。そういう浮薄なたちになってしまった人のはてが、どうしてよいでありましょう。)

以上が紫式部からみた、和泉式部赤染衛門清少納言の批評です。批判的な意見も交えつつ、和泉式部、赤染衛門については和歌の才など認めていることが本文から見受けられますが、清少納言については批判的な意見しか見受けられません。紫式部が清少納言を嫌っていたかどうか、お互いに交流があったのか等はわかっていませんが、お互い仕えていた主人が同じ一条天皇の妻となっており、政争の渦中にいたと考えられます。また、当時は真名(漢字のこと)は男性が使う文字とされており、情勢は仮名(平仮名)を使うのが基本でした。女性でありながら真名を使える存在は稀でした。紫式部は日記中で清少納言に対し、「真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり」と批判してはいますが、紫式部も清少納言も真名を理解していたと言われています。そういった知的な要素がかぶっていたところからもライバル視していたのではないかと考えられています。

最後に『紫式部日記』について簡単な問題を出したいと思います。
(わからなかった問題はしっかりと復習しよう!)

  1. 紫式部は誰に仕えましたか。
  2. 紫式部が『紫式部日記』の中で批評した女房を一人答えなさい。
  3. 紫式部は真名(漢字)が使えますか。
  4. 『紫式部日記』の主な内容は問1の人物の出産などの様子になっていますが、問1の人物が結婚したのは何天皇ですか。
  5. 紫式部の父親は誰ですか。

→次回は和漢朗詠集について解説します!

(註)
  • [i] 949ころ‐1029ころ(天暦3ころ‐長元2ころ) 平安中期の漢詩人。刑部大輔雅正の男。堤中納言兼輔の孫。母は右大臣定方の娘。菅原文時に師事し,文章生に挙げられ,式部丞,蔵人などを歴任した。996年(長徳2)淡路守に任ぜられた際,〈苦学寒夜,紅涙霑襟(てんきん)を霑(うる)ほす,除目の後朝,蒼天に眼在り〉の句を奏上して,一条天皇を感心させ,越前守にふりかえられた話は《今昔物語集》巻二十四などにも記されて有名。右馬頭藤原為信の娘と結婚し,紫式部らをもうけた。平凡社『世界大百科事典』
  • [ii] (877~933) 平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。従三位中納言兼右衛門督。邸が賀茂川の堤近くにあったので堤中納言と呼ばれる。「古今和歌集」以下の勅撰集に五五首入集。著「聖徳太子伝暦」、家集「兼輔集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [iii] 藤原公任による歌合形式の秀歌撰《三十六人撰》にもとづく36人の代表歌人をいう。柿本人麻呂,紀貫之,凡河内躬恒(おおしこうちのみつね),伊勢,大伴家持,山部赤人,在原業平,僧正遍昭,素性法師,紀友則,猿丸大夫,小野小町,藤原兼輔,藤原朝忠,藤原敦忠,藤原高光,源公忠,壬生忠岑,斎宮女御,大中臣頼基,藤原敏行,源重之,源宗于(むねゆき),源信明,藤原清正(きよただ),源順,藤原興風,清原元輔,坂上是則,藤原元真(もとざね),小大君,藤原仲文,大中臣能宣,壬生忠見,平兼盛,中務(なかつかさ)である。平凡社『世界大百科事典』
  • [iv] ?‐1001(長保3)。平安中期の廷臣。藤原氏北家の高藤系で,右大臣定方の曾孫,為輔の子。紫式部の夫。紫式部の父為時と為輔はいとこであり,宣孝と式部は,またいとこである。正五位下。中宮大進,左衛門尉,蔵人,院判官代,大宰少弐を経て985年(寛和1),丹生社に祈雨の使となっている。990年(正暦1)御嶽精進(みたけそうじ)を行い,その年筑前守となっている。紫式部との結婚は998年(長徳4)の末か翌999年(長保1)のはじめといわれる。平凡社『世界大百科事典』
  • [v] 律令制の官名で、六衛府ろくえふの一。衛士を率いて宮城諸門の警護・開閉を行い、行幸の際に供奉ぐぶする武官の役所。左右の二衛門府があった。靫負司ゆげいのつかさ。金吾。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [vi] 蔵人所の役人で、機密の文書・訴訟をつかさどった令外りようげの官。のちには、天皇の衣食・起居のことから伝宣・進奏・諸儀式、その他宮中のいっさいのことを扱った。院・摂家にも置かれた。くらんど。くらうど。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [vii] 律令制で、中央から派遣され、諸国の政務を管掌した地方官。守かみ・介すけ・掾じよう・目さかんの四等官と史生ししようを置いた。その役所を国衙こくが、国衙のあるところを国府といった。狭義には守(長官)のみをさす。国宰。くにづかさ。くにのつかさ。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [viii] 平安中期の女流歌人。大江雅致まさむねの女むすめ。和泉守橘道貞と結婚、小式部内侍を生む。冷泉院の皇子為尊ためたか親王(977~1002)・敦道あつみち親王(981~1007)の寵ちようを受け、両親王薨御こうぎよ後は、一条天皇中宮彰子に出仕。のち、藤原保昌(958~1036)と再婚、夫の任地で没。恋の哀歓を直截ちよくせつに詠んだ女性として名高い。生没年未詳。著「和泉式部日記」、家集「和泉式部集」『三省堂 大辞林 第三版』
  • [ix] 平安中期の女流歌人。赤染時用ときもちの女むすめ。実父は母の前夫平兼盛か。大江匡衡まさひらの妻。藤原道長の妻倫子、その子上東門院に仕え、和泉式部と並び称された。古来「栄花物語」の作者に擬せられている。家集「赤染衛門集」。生没年未詳。『三省堂 大辞林 第三版』
  • [x] 紫式部と共に平安中期を代表する女流文学者。生没年、本名未詳。父清原元輔は「後撰集」撰者、曽祖父深養父ふかやぶも著名な歌人。一条天皇中宮(のち皇后)定子に仕え、清原姓に因んで清少納言と呼ばれた。和漢の学に通じた才女として名を馳せ、「枕草子」を著す。家集に「清少納言集」がある。『三省堂 大辞林 第三版』

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