現代に生きる我々にとって、「科学」は欠かせないものとなっています。この記事を書くためにパソコンを使っていますし、快適に作業をするためには冷暖房も必要です。休憩をしよう、と思ったら冷蔵庫から飲み物を出して、スマートフォンをチェックする。すべて科学の賜物ということができるでしょう。
科学のおかげで、数百年前、数十年前には考えもしなかったことが実現できています。科学は万能のように思えますね。
では、本当に科学に限界はないのでしょうか?
科学の限界
科学は万能か、科学に限界はないのか、という問いにたいして、以下のように考えてみます。
赤や青といった色は光の波長によって規定されます。つまり、その波長を計測し、同じ波長を作り出せば、同じ赤や青を再現できるという事です。CDも原理としては同じですね。
では、その赤や青といった色彩の「感じ」についてはどうでしょう。赤や青からうけるイメージや、その時受けた印象は再現できるでしょうか?
答えはNOです。「イメージ」や「印象」は科学によって再現することはできません。
これこそがまさに「科学の限界」です。科学は「分析」によって「再現可能性(反復可能性)」を実現しています。同じ条件のもと、同じことを繰り返せば同じことが生じる、同一の原因からは同一の結果が生じる——これが科学の基本です。
ですが、この「再現可能性」、つまり「法則」を確立させるためには、具体性を捨象し、「抽象化」することが必要です。抽象化することで、普遍性を高めるわけです。これにより、我々が具体的な事象から受けた「イメージ」や「印象」というものは、そのときだけのもの、「一回性」のもの、として切り捨てられてしまうのです。
このようにして、人間の一回限りの具体的な要素は捨象されます。つまり、すべてが均質に抽象化され、画一化されることを意味します。その人だけの独自の要素は切り捨てられ、ほかの人々と共通する抽象的な部分のみが生かされていることになります。「かけがえのない」存在などとよく言いますが、「近代合理主義」のもとではその「かけがえのない」、「とりかえのきかない」部分は考慮されません。年齢や性別からはじまり、あらゆる個人の要素という具体性は捨て去られ、共通する部分のみが残ります。
たとえば、自分にしかできないことがあれば「自分はかけがえのない存在だ」と思うこともできるでしょうし、かけがえのない自分自身という存在を感じることができます。しかし、近代の労働者は、取り替えがきく存在でした。その人が少なくとも労働において、自分の「かけがえ」のなさ、自分自身を感じられるでしょうか…。
こういった問題は、近代だけでなく現代でもある程度共通する部分がありますね。自分は何のために生きているのか、自分でなくてもいいのではないか、と考える人は大勢います。このような状態を「疎外」というのですが、自己のアイデンティティともかかわっているこの問題に明確な答えが出る日は来るのでしょうか。
次回は、科学に対してまた別の側面からアプローチしてみたいと思います。
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参考