前回は、「近代」の概略についてお話をしました。今回は、「近代」の思想についてお話しようと思います。
近代の思想
「近代」の、ものの考え方の基礎を築いたのが、フランスの哲学者デカルトです。デカルトは、ものごとを理屈に沿って合理的に考えていきます。すると、あらゆる<モノ・コト>が、次々と疑わしくなっていきます。「なぜ花は美しいのか」「美しいとはなにか」「なぜそのように感じるのか、見えるのか」…。そして、最後に気が付きます。「あらゆる<モノ・コト>を疑っている私だけは、確実に存在している」。
これが有名な「Cogito ergo sum」、「我思う、故に我有り」です。
この言葉に表されているデカルトの考えは、「考えている<私>」の存在と「疑われている<私以外>」を分離しているとも言えます。これは<私>=主体(subject)と、<私以外>=客体(object)を分離する、「主客二元論」の主張と考えられます。<私>と<私以外>というのは、いうなれば世界の中心は<私>ということです。
世界を認識しているのは<私>で、<私>が認識しなければ<私以外>は存在しないのと変わらないのです。だからこそ、世界の中心は<私>である、と考えることができます。
また、このことは、自分以外の世界を客体にする=対象化することになり、「科学」を生み出す基盤となりました。対象化することによって、客観的に世界を見られるようになり、利用することができるようになったのです。
近代合理主義
主格二元論によって<私>と<私以外>が切り離されることになりました。そこで、<私以外>の「客体としての世界」を「人間の理性」によってとらえようとする態度が生じました。「近代」においての「理性」とは、「科学」によって裏付けられる「合理的」な態度・思考のことです。そのような「科学的理性」によって「客体としての世界」をとらえるような立場こそが「近代合理主義」と呼ばれるのです。
科学とは、「近代」において人間中心の合理的な価値観の中で発展していきました。化学は、人間が中世における神の位置に立って、一点から合理的に考えるための「体系」として確立したのです。
その中心にあるのは、数量化、抽象化、一般化です。そして、科学において重要なのは、「いつでも、どこでも、誰にでも」同条件内で同じ結果を出すことを可能にする再現可能性です。また、公開性と普遍性も重要な要素です。これらの根底には「対象化」という作業があります。「対象化」とは、「客体(object)から距離を置いて観察し、利用し、自分に都合のよいように変えること」です。
例えば、「自然の対象化」について考えてみます。
人間は、その昔(中世まで)は、自然の一部であり、自然と融合的でした。ところが人間が「近代」の訪れとともに自然を対象化(切り離し、目の前に置くこと)すると、自然は<私>と無関係のように見ることができます。すると、<私以外>である自然を自分の都合がいいように「作り変える」ことができるようになるわけです。ですから、「自然を対象化する」とは、「自分と自然を切り離し、距離をとって目の前に置き」、「自分の都合で作り変えること」を意味することとなります。
人間は、自然を対象化することで自分に都合がいいように利用してきました。そのことでいろいろな問題が生じるのですが、それはまた次回の記事にて。