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六国史の覚え方は?おさえるべきポイント!
六国史とは官撰(政府で編纂すること、また編纂された書物)の6種の国史の総称です。それぞれ成立順に『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の6種で奈良・平安時代に編纂されました。それぞれの内容をおさえていきましょう。
【補足】国史の編纂について
国史の編纂は7世紀(飛鳥時代)に聖徳太子[i]、蘇我馬子[ii]によって編纂されました。その際に編纂されたのが、『天皇記』(天皇の系譜や皇位継承について書かれている)と『国記』(有力豪族の系譜などが記されている)です。しかし、大化の改新の際に蘇我蝦夷邸焼亡とともに焼失したといわれており、現存していません。
『日本書紀』
720年(養老4年)に成立した初の日本の勅撰の正史。六国史の最初。30巻からなり、神代より持統天皇の代までを漢文で編年体に記されています。編纂者は舎人親王[iii]や太安万侶[iv]ら。
【補足】あわせておさえよう!
『古事記』
現存する日本最古の書。712年(和銅5年)成立、3巻。天武天皇の命で語り部(神話や伝承を記憶し、口承で語り伝える役職)であった稗田阿礼[v]が語るものを太安万侶が筆録、神代から推古天皇までが記されています。
『続日本書紀』
697年(文武1年)文武天皇から791年(延暦10年)桓武天皇までの95年間を編年体で記した勅撰史書。菅野真道、藤原継縄らが編纂に当たり、797年(延暦16年)に全40巻が完成・奏上されましたが、編集過程は複雑でその様子が『類聚国史[vi]』『日本後紀』の上表文に記述されています。
『日本後紀』
792年(延暦11年)から833年(天長10年)まで桓武、平城、嵯峨、淳和四天皇の42年間の記録を編年体でまとめた勅撰の歴史書。819年(弘仁10年)嵯峨天皇の命により、藤原冬嗣[vii]、藤原緒嗣[viii]らが編纂を始め、840年(承和7年)に成立。
『続日本後紀』
20巻。833年(天長10年)から850年(嘉祥3年)にまで仁明天皇(在位833〜850年)一代の18年間が記されています。855年(斉衡2年)文徳天皇の命により藤原良房[ix]、藤原良相、伴善男[x]、春澄善縄、県犬養貞守の5人が編纂にあたり、清和天皇の869年(貞観11年)に完成・奏上しました。
『日本文徳天皇実録』
10巻。850年(嘉祥3年)から858年(天安2年)まで文徳天皇(在位850~858年)一代の歴史を編年体で記した歴史書。871年(貞観13年)清和天皇の命により、藤原基経[xi]らが編纂をはじめましたが一時中断されました、878年(元慶2年)陽成天皇の命により、藤原基経、菅原是善、都良香を中心に編纂が再開され翌年879年(元慶3年)完成しました。
『日本三代実録』
50巻。六国史の最後。858年(天安2年)から887年(仁和3年)年まで、清和、陽成、光孝天皇まで収載されています。892年(寛平4年)宇多天皇の命によって、源能有、藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らが編纂にあたりました。901年(延喜1年)成立。
【註】
- [i] 574〜622 6〜7世紀の摂政・思想家
厩戸豊聡耳皇子 (うまやどのとよとみみのおうじ) ・上宮太子 (じようぐうたいし) ともいう。用明天皇第2皇子,母は穴穂部間人 (あなほべのはしひと) 皇后。593年叔母推古天皇の摂政 (せつしよう) となり,蘇我馬子と協調して政治・外交・文化に活躍。603年冠位十二階,604年憲法十七条の制定,『天皇記』『国記』の編纂,607・608年小野妹子を隋に派遣して国交を開き大陸文化を摂取。また仏教興隆につとめ,四天王寺・法隆寺を建立し,『三経義疏 (さんぎようぎしよ) 』を著した。天皇を中心とする中央集権国家をめざしたその政治思想は大化の改新以降に結実した。(旺文社『日本史事典』 ) - [ii] ?〜626 6〜7世紀前期の大和政権の大臣
稲目の子。父のあとをうけ大臣 (おおおみ) となった。仏法を信仰し,排仏派の政敵物部守屋を587年滅ぼし専権をふるった。のちみずから擁立した崇峻天皇を殺害し,妹堅塩媛 (きたしひめ) の生んだ推古天皇を擁立,摂政の聖徳太子とともに政治を指導した。氏寺として法興寺を建立し,『天皇記』『国記』などの国史を編纂した。(旺文社『日本史事典』 ) - [iii] 676〜735 奈良時代の皇族。『日本書紀』編修の最高責任者
天武天皇の第3皇子。母は天智天皇の皇女親田部皇女。淳仁天皇の父。『日本書紀』の編纂にあたり,720年これを完成。同年藤原不比等の死後,知太政官事として国政に参与した。死去に際し太政大臣を贈られ,淳仁天皇即位時(759)に崇道尽敬皇帝の号を贈られた。(旺文社『日本史事典』 ) - [iv] ?〜723 奈良時代の官人・文人。『古事記』の撰録者
名は「安麻呂」とも書く。稗田阿礼 (ひえだのあれ) が誦んだ『帝紀』『旧辞 (きゆうじ) 』を,711年元明天皇の勅命で筆録し,翌712年『古事記』を完成。舎人 (とねり) 親王を総裁とする『日本書紀』の撰修にも活躍した。(旺文社『日本史事典』 ) - [v] 生没年不詳 7世紀半〜8世紀初めの舎人 (とねり) で,『古事記』編纂者の一人
天武天皇の命により『帝紀』『旧辞』を誦習。それを712年元明天皇の命で太安万侶 (おおのやすまろ) が筆録したのが『古事記』であるという。(旺文社『日本史事典』 ) - [vi] 平安前期の歴史書 892年成立。本史200巻,目録2巻,帝王系図3巻。現存61巻,抄本1巻。菅原道真 (すがわらのみちざね) 編。六国史の記事を事項別に分類し年代順に収録したもの。六国史の記事検索に便利であり,『日本後紀』の欠を補う古代史研究の重要史料。(旺文社『日本史事典』 )
- [vii] 775〜826 平安初期の公卿
北家の内麻呂の2男。嵯峨天皇の信任を得,810年薬子の変のとき蔵人頭 (くろうどのとう) となった。昇進して左大臣となり,娘順子を皇太子正良親王(仁明 (にんみよう) 天皇)の妃となって道康親王(文徳天皇)をうみ,北家隆盛の基礎を築いた。『弘仁格式』を編纂,勧学院をつくって子弟を教育し,興福寺南円堂を建立した。また漢詩が『文華秀麗集』『経国集』におさめられている。(旺文社『日本史事典』 ) - [viii] 773〜843 平安初期の公卿
式家の百川 (ももかわ) の長男。正二位。左大臣。桓武天皇が百川の政治的策動によって即位したためもあって特別の恩寵をうけた。「軍事(征夷)と造作(造都)は天下の苦しむところ」と両者の停止を上奏したり,大嘗会の費用を節減するなど財政の緊縮をはかった。(旺文社『日本史事典』 ) - [ix] 804〜872 平安前期の公卿
摂政。冬嗣の2男。承和の変(842)ののち,大納言・右大臣・太政大臣を経て,858年清和天皇の即位とともに実質的に皇族以外で最初の摂政となった。866年応天門の変で大納言伴善男らを政界から追放。その直後正式に摂政となり,摂関政治の基礎を確立した。(旺文社『日本史事典』 ) - [x] 809〜868 平安前期の貴族
もと大伴氏。848年参議,864年大納言に昇進。866年応天門の火災の際,左大臣源信 (まこと) をおとしいれようとし,かえって放火罪で,伊豆に流された(応天門の変)。『伴大納言絵巻』はこの事件が主題となっている。(旺文社『日本史事典』 ) - [xi] 836〜891 平安前期の公卿
摂政・関白。通称堀河太政大臣。長良 (ながら) の子。叔父良房の養子となってしだいに昇進。884年陽成天皇に代えて光孝天皇を立て,事実上最初の関白となり,887年阿衡事件以後名実ともに関白となった。『日本文徳天皇実録』の撰修を主宰。(旺文社『日本史事典』 )
まとめ
『日本書紀』 |
神代〜持統天皇 (〜697) |
720年
|
舎人親王、太安万侶ら |
『続日本書紀』 |
文武〜桓武天皇 (697〜791年) |
797年
|
菅野真道、藤原継縄ら |
『日本後紀』 |
桓武〜淳和天皇 (792〜833年) |
840年 |
藤原冬嗣、藤原緒嗣ら |
『続日本後紀』 |
仁明天皇 (833〜850年) |
869年 |
藤原良房、藤原良相、伴善男、春澄善縄、県犬養貞守 |
『日本文徳天皇実録』 |
文徳天皇 (850〜858年) |
879年 |
藤原基経、菅原是善、都良香ら |
『日本三代実録』 |
清和〜光孝天皇 (858〜887年) |
901年 |
源能有、藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平ら |