現代文で頻出の概念を理解しよう!〜「科学の発展」は人間にどのような影響を与えたのか?〜

みなさんは、例えばテストでさっぱりわからない問題に対面したとき、どうしますか?諦めますか?神に祈って鉛筆を転がすでしょうか?おそらく多くの人は、「どこか一部分でも理解できそうな場所はないかな」「全部は解けないけどここの部分だけならなんとかできそうだな」と考えると思います。わからない問題を、わかる問題になるよう分割するわけですね。

科学の方法

前回の「近代」というテーマで、「考えている<私>」(主体)と「疑われている<私以外>」(客体)を明確に区別し、「主体」によって「客体」を「対象化」する、というお話をしました。このような近世の二元論的立場は、デカルトによって創始されたのですが、デカルトの著作『方法序説』には、「対象化」を通してものごとの真理に到達するための方法が提示されています。

  1. 疑う余地のないもの、明らかな真理として証明できるもののみを、自らの判断に取り入れること。「方法的懐疑」。
  2. 複雑で困難な問題を、できるだけ単純で検討の容易な部分に分割すること。「分析」。
  3. 分割された単純な小部分から出発して、それらを結び付けてもとの複雑な全体の理解に至ること。「総合」。

最初に述べたように、みなさんはすでにこういった思考をしているのではないでしょうか?難題も、よくよく見ると平凡な問題の組み合わせにすぎないとわかれば、あとは一つ一つを根気よく片づけていくだけですね。

科学万能論

人類は、上に挙げたような「科学の方法」を用いて様々な問題を解決し、発展してきました。今日の「物質的な豊かさ」も、こういった方法によって生み出されてきました。

例えば、産業革命によって工場制機械工業が成立しましたが、これもまた「分析と総合」です。かつてはひとりの職人がある製品をゼロから作り上げていました。ですが、工場制機械工業では、「分業」によって、ひとりの労働者がひとつの工程だけを担当します。そして、多くの労働者の仕事を「総合」して製品が完成するように工夫した結果、職人に要求されていた広範な熟練の必要がなくなりました。結果として、短時間に大量の、低価格の製品の生産が実現したのです。

また、医療の領域も同じです。健康を損なったならば、その「原因」を「分析」しますね。たとえば心臓という一部分が「原因」ならば、心臓に対して「治療」を施すことで、その人「全体」が恢復されるわけです。臓器移植などは、分割して考える「分析」の最たる例ですよね。

その他、宇宙や原子やDNAなど、壮大な可能性の実現を人間は「科学」によって果たしています。数百年前、数十年前には想像もできなかったようなことが「科学」によって実現可能となっている。そうなると、今日存在する様々な問題(環境問題などですね)も、やはりこの「科学的な方法」ですべて解決できるような気がしてしまいます。「科学万能論」とでもいうべき、信仰に近い、「科学」に対する絶対的な信頼も、無理からぬことかもしれません。

科学万能論のイメージ

科学万能論のイメージ

ですが、本当に科学は万能なのでしょうか?世の中の事象は、すべて「科学的方法」によって理解できるのでしょうか?つまり、科学に限界はないのでしょうか?

実際のところ、(あくまで「現在の」科学ではという話ですが)科学に限界はあると言わざるを得ません

長くなってしまうので、続きは次回にします。次回は、科学の限界についてお話します。

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