福沢諭吉は、明治時代の啓蒙家であり、慶應義塾大学の創設者でもあります。また、以前いぜんの一万円札に印刷されているのも福沢諭吉です。そのような福沢諭吉について年代ごとにみてきましょう。
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天保5年(1834年)誕生
豊前国(現:福岡県東部及び大分県の北西部)中津藩士福沢百助と妻順の第五子として生まれます。2歳の時に父と死別し、母の手一つで育ちます。
安政元年(1854年)長崎へ
蘭学修行のため、中津から長崎に出ます。
安政2年(1855年)適々斎塾に入る
大坂の適々斎塾に入ります。適々斎塾は、蘭学者の緒方洪庵[i]が開いた蘭学塾です。塾生には、福沢諭吉のほか、大村益次郎[ii]、佐野常民、橋本左内[iii]など明治時代に入り活躍する人材を多く排出しました。
安政5年(1858年)江戸へ
藩命で江戸に赴き、蘭学塾を創設します。これがのちの慶應義塾となります。
万延1年(1860年)咸臨丸に乗り込み渡英
福沢諭吉は勝海舟[iv]を館長とする咸臨丸[v]に乗り込み、渡英します。その後数年にわたり、仏英蘭独露葡などを訪れ国情視察と書物を購入し、翻訳などに努めました。その際の記録として、『西航記』『西航手帳』があります。
慶応2年(1866年)『西洋事情』刊行
海外渡航の経験やその際に購入した洋書などをもとに西洋文明について紹介する書を刊行します。3編からなり、初編は慶応2年(1866年)、外編は明治1年(1866年)、2編は明治3年(1870年)の刊行となります。
明治1年(1868年)私塾を慶應義塾と改める
(慶應義塾大学)
これまでの私塾の名称を慶應義塾と改め、「商工農士の差別なく」学問を志す人々にとっての学習の場としました。
明治5年(1872年)『学問のすゝめ』刊行
冒頭で、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」と人間平等宣言を記し、「一身独立、一国独立」すべきだと説いた福沢諭吉の名著『学問のすゝめ』の初版を刊行します。この本は大ベストセラーとなり、第17編(明治9年(1876年))まで続くシリーズとなりました。また、本作によって福沢諭吉は啓蒙思想家としての地位を確立していきます。
明治6年(1873年)明六社に参加
明六社は明治6年に結成された洋学者らによる日本で初めての結社です。森有礼[vi]の提唱により、津田真道[vii]、西周、中村正直、福沢諭吉ら総勢10名で発足します。毎月2回会合し、研究討論や講演会を行うほか、啓蒙雑誌『明六雑誌[viii]』(1874年3月創刊)の発行などで啓蒙思想を広げるか活動を行いました。
明治8年(1875年)『文明論之概略』刊行
日本の文明の特徴を紐解き、かつての保守的な儒教基づく思想を批判し、西洋思想に触れながら日本の文明はどうあるべきか示した福沢諭吉の著作。
明治18年(1885年)『脱亜論』を唱える
「亜細亜東方の悪友を謝絶する」と唱え、アジア諸国で連帯するのではなく、西洋の文明を積極的に取り入れることを説きました。
明治34年(1901年)死去
脳溢血で死去。
まとめ……の前に
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さいごに
今回は慶應義塾大学の創始者で、以前の1万円札に顔写真が印字されている福沢諭吉について年表形式でまとめてみました。休憩がてらにでも目を通し、みなさんが一つでも新しい知識を得ることが出来たら幸いです。