宗教改革とドイツにおけるその展開[たった15分で要点を総ざらい!受験に役立つ世界史ノート]

ここでは宗教改革について学習します。キリスト教や教会の在り方をもう一度見直そうとする宗教改革の動きは、教会の権威の衰退とともに生まれました。では、具体的に誰がどのような活動をすることで広まっていったのでしょうか?宗教改革の背景や流れをしっかりと押さえておきましょう!

宗教改革とドイツにおけるその展開

異端運動と宗教改革

教皇の権威が衰えていた頃、教皇の存在を支えていた宗教を見直す動きが始まった。宗教改革である。ここでは、宗教改革の先駆者、ウィクリフフスについてまとめる。

  • ウィクリフ(1320年頃〜1384年)〔イギリス〕 ※百年戦争(14世紀)の頃の人物。
    • 聖書中心主義
      聖職者らの生活が本来の聖書にある姿と異なると感じたウィクリフは、聖書に立ち返ることを主張した。
    • 聖書の英訳
      聖書は従来ラテン語で書かれており、ラテン語が読めない人は聖職者の言葉を信じるほかなかった。そのため、ウィクリフによる英語への翻訳は信仰する人々による聖職者たちの見方を改める重要なきっかけとなった。
      →これらの主張によって、ローマ教皇との対立が深まった。
    • 教皇からのイギリスの独立
    • コンスタンツ公会議(1414年)で異端とされる。
      一連の宗教改革によって教皇の権威が失われていく事に危機感を覚えた教皇は、発端となったウィクリフと後に登場するフスを異端とし、ウィクリフの墓をあばき、遺体を火刑に処した。

〔ウィクリフ〕

  • フス(1370年頃〜1415年)〔ベーメン(ボヘミア、チェコ)〕
    • ウィクリフの考えに賛同し、宗教改革を率いる。
    • 聖書をチェコ語に翻訳
      ウィクリフの英訳同様、ラテン語が読めない人は聖職者の言葉を信じるほかなかった。フスによるチェコ語への翻訳は、信仰する人々による聖職者たちの見方を改めるきっかけとして重要な事柄である。
    • 破門(1412年)
      1412年、ローマ教皇によって販売された贖宥状(しょくゆうじょう:天国にいけるように、犯した罪を無かったことにする書類。つまり、お金があれば天国に行ける、という制度)を批判した結果、破門される。
    • コンスタンツ公会議(1414年)で異端とされる。
      一連の宗教改革によって教皇の権威が失われていく事に危機感を覚えた教皇は、発端となったウィクリフとともに異端とされ、危険分子とみなされ火刑に処された。
      →フスの処刑によってフス戦争(1419年〜1436年)がおこる。


〔ヤン・フス像 プラハ旧市街〕

※補足:入試で狙われやすいフスに関連する事項

プラハ大学 神学
フスはプラハ大学で神学を学んで学長となった。

異端運動であった初期の宗教改革は後の世に大きな影響を与えた。異端として排除されてもなお、民衆の間では以前から抱いていた教皇を含む聖職者への不信感に加え、黒死病(ペスト)の蔓延の中で宗教改革への期待が高まっていた。

ルターの改革

宗教改革が始まるドイツの背景

  • 聖書の研究が進んだことで教会を批判する声が上がっていた。
  • 当時の神聖ローマ帝国はいくつかの国のようなもの(自由都市や領邦など)の集合体であったため、統率がとれていなかった。(神聖ローマ帝国のこの状態を「ローマの牝牛」と呼ぶ)
  • 贖宥状(免罪符)の販売により、教会への不信感が高まっていた。

マルティン=ルター

  • 九十五カ条の論題』(1517年)の発表
    教皇レオ10世による贖宥状の販売(サン=ピエトロ大聖堂の改築を行うための費用を得るため)を批判するもの。
  • キリスト者の自由』(1520年)の発表
    信仰義認説を説く。
  • 信仰義認説…人の罪は(贖宥状というお金で買えるもので消えるものではなく)信仰によってつぐなわれるものだ、とする説。-「人は信仰によってのみ義とされる」
  • 神聖ローマ帝国からの追放令が出る
    1521年:神聖ローマ帝国皇帝カール5世がヴォルムス帝国議会にルターを召喚し主張の撤回を求めるも拒否したため帝国から法律の保護から外される(事実上の国外退去を命令される)。
    ※「法律の保護から外れる」とは言葉通り、法律の適応外に置かれること。たとえ誰かがルターを殺しても咎められない状態となる。
  • ザクセン選帝侯フリードリヒによる保護
    国外追放の命令を受けたルターであったが、ザクセン選帝侯のフリードリヒに保護されることになる。保護下で新約聖書をドイツ語に翻訳した。
    その後、ルター派と呼ばれる新たな派閥が誕生した。

〔マルティン=ルター〕

ドイツにおける宗教改革運動の展開

ルターから始まったドイツの宗教改革は広がりを見せていく。

  • ドイツ農民戦争(1524年~1525年)
    農奴制度の撤廃など(十二カ条要求)をもとめる西南ドイツの農民たちが立ち上がったことで始まった。後に神聖ローマ帝国中部にまで拡大したこの戦争は宗教改革を求めた民衆の動きの一つであり、その要求は聖書によって根拠づけられている。拡大後はミュンツァーを指導者としたが、諸侯らによって鎮圧された。
    ※当初、ルターは聖書によって立ち上がった農民たちに同情的であったが、次第に過激さを増していったため諸侯らを支持する側に回った。

一度は抑制されたルター派であったが、外交問題によって風向きが変わる。

  • イタリア戦争(1494年~1559)の激化
  • オスマン帝国のヨーロッパ進出
    イタリアの覇権を巡って、マクシミリアン1世(神聖ローマ帝国)とシャルル8世(フランス)の頃から争っていた神聖ローマ帝国とフランスだが(イタリア戦争)、カール5世神聖ローマ帝国)とフランソワ1世(フランス)の治世で再び開戦。
    フランスは再び敗戦し、
    オスマン帝国の進出が始まる。フランスは当時のオスマン帝国皇帝であり、オスマン帝国最盛期の皇帝でもあるスレイマン1世と接近する。この頃スレイマン1世率いるオスマン帝国は神聖ローマ帝国の目と鼻の先・ハンガリーに迫っていた。そこで神聖ローマ皇帝カール5世は第一回シュパイエル帝国会議(1526年)にてルター派を容認する
    そして同年、
    モハーチの戦い(1526年)でハンガリーに勝利したオスマン帝国がハンガリーを獲得する。オスマン帝国の脅威が迫る中、第二回シュパイエル帝国会議(1529年)でルター派を再び禁止にする。この頃ルター派の諸侯や都市が皇帝に抗議し、「プロテスタント」という名称が登場。同年秋、第一次ウィーン包囲(1529年)でオスマン帝国が神聖ローマ帝国に圧力をかけるも失敗に終わるが、ルター派についての議論は持ち越される。
    1530年にはルター派の諸侯や都市による
    シュマルカルデン同盟が成立する。1546年から翌年にかけて起きたシュマルカルデン同盟と皇帝派の戦争(シュマルカルデン戦争)でルター派は敗北し、同盟は崩壊するが、アウクスブルクの和議1555)でついにルター派かカトリックかを選択することが可能になった。

<神聖ローマ帝国のルター派容認までの流れまとめ>

  1. ルター派禁止
    ドイツ農民戦争(1524年~1525年)
  2. オスマン帝国の進出によって一時容認
    モハーチの戦い(1526年)
  3. 再度禁止
    ↓「プロテスタント」の登場
    ※第一次ウィーン包囲がおこる(1529年)
  4. ルター派との対立
    シュマルカルデン戦争(1546年~1547年)
  5. ルター派の再容認
    アウクスブルクの和議1555年


〔16世紀のヨーロッパ〕
(『増補版 標準世界史地図』より)

→続きはこちら カルヴァンの宗教改革運動とカトリックの改革

おすすめ記事

参照

  • 木下康彦・木村靖二・吉田寅編『詳説世界史研究 改訂版』、 山川出版社、 2018年
  • 八尾師誠監修 川音強著『改めて知る 国ごと,地域ごとにまとめ直した高校世界史 増補版―上巻―』、清水書院、2015年
  • 八尾師誠監修 川音強著『改めて知る 国ごと,地域ごとにまとめ直した高校世界史 増補版―中巻―』、清水書院、2015年
  • 八尾師誠監修 川音強著『改めて知る 国ごと,地域ごとにまとめ直した高校世界史 増補版―下巻―』、清水書院、2015年
  • 亀井高孝、三上次男、堀米庸三編『増補版 標準世界史地図』、吉川弘文館、2014年
  • トリップアドバイザー HP 最終閲覧日2020年5月17日
  • TBS クラーナハ展 HP 最終閲覧日2020年5月19日

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大分舞鶴高校を卒業し1浪して東京女子大学へ進学。 浪人時は高校時代に憧れた東京への進学をモチベーションに、世界史・国語・英語の学習に励み、その結果、センター試験にて世界史満点の快挙を成し遂げる。 現在、大学では産業心理学を専攻し、社会人の社内の人間関係やストレス・鬱発症者の職場復帰プランケアの研究を行っており、卒業後はマスメディア業界への就職を予定。趣味は、幼少期の豊富な習い事経験から、声楽・バレエ・ピアノ・生花と多彩。