【中学受験】古代の社会を整理しよう~飛鳥時代①

受験生の皆さんは、夏休みが始まり、日々受験勉強を進めていることと思います。夏期講習も塾によって形態は異なりますが始まっているところもあり、毎日大量の問題演習をしている、という方も多いのではないでしょうか。

今年は新型コロナウィルスの影響で夏休みは短くなり、秋以降の学習態勢もまだどうなるかはっきりしていない中、受験勉強を進めるのは大変なことですが、入試日程に変更はいまのところないので、粛々とやるべきことを解決して積み重ねていきましょう。

秋以降小学校や塾が解禁になったとすると、自宅学習の時間は少なくなります。夏休みはまとまった学習時間が取れる最後のチャンスなので、この期間に手薄になっていたところ、1学期に学習した単元の見直し、弱点の克服をおこなうことがとても大切になってきます。

特に社会は、直前期に暗記で乗り切ろうとする受験生が多いですが、非常に多くの分野、単元があるので、どうしても得意なところ、苦手なところが出てしまい、克服しようとは思っているものの手つかずになっているところは誰でも必ずあるはずです。

特に歴史は範囲が広いにもかかわらず約半年間という短い期間ですべての時代の学習をおこなうため、最初の頃に学習したところは忘れてしまっていて、なかなか振り返る時間が取れないというご相談をよく受けます。特に古代の歴史については5年生の秋ごろに学んでいるため、すっかり忘れてしまっている受験生は少なくありません。ですが、現在の日本の土台となっている重要事項も多いので、やり過ごすわけにもいきません。

そこで、夏休みに重要事項を振り返るためにも、古代の歴史のポイントを解説します。今回は飛鳥時代についてです。有名な人物や年号、できごとが実は多いので、これを機会にポイントを押さえて復習しておきましょう。

飛鳥時代のスターは聖徳太子

6世紀の後半ごろ、日本をおさめていたのは大和朝廷です。当時の大和朝廷で勢力を握っていたのは蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)でした。この二大勢力のどちらにつくかで権力争いが起こっていたのです。蘇我氏は仏教、物部氏は神道勢力という宗教上の考え方の違いもありました。

蘇我氏の中でも特に力を持っていたのは蘇我馬子(そがのうまこ)です。蘇我馬子は、物部氏と激しく対立し、仏教を受け入れない物部氏を滅ぼしてしまいます。これが587年のことです。物部氏の滅亡により蘇我馬子をはじめとする蘇我氏はさらに権力を増します。さらには592年にときの天皇であった崇峻天皇(すしゅんてんのう)を暗殺してしまいます。現代でも、天皇を暗殺するなどあり得ない話ですよね。ですが、蘇我氏は天皇家とも姻戚関係にあり、天皇すら蘇我氏の顔色をうかがう必要があるという時代だったのです。

おわかりだとは思いますが、蘇我馬子は名前に「子」が付いていますが男性です。以前、「与謝野晶子」について問う問題で「蘇我馬子」と解答した生徒がいましたが、この時代は小野妹子など男性でも「子」のつく人物がたくさんいたので、要注意です。整理して覚えましょう。

初の女性天皇となった推古天皇

崇峻天皇が暗殺された後に天皇となったのが、日本初の女性天皇である推古天皇(すいこてんのう)です。推古天皇を天皇の位につけたのはあろうことか崇峻天皇を暗殺した蘇我馬子でした。女性なので、自分の言うことなら何でも聞くだろうと都合が良いと考えて推挙したと言われています。蘇我馬子は女性天皇である推古天皇のもとで、さらに自分が政治の実権を握ろうとしたのです。

聖徳太子が推古天皇の摂政に

推古天皇は有能な天皇だったと言われています。しかし、蘇我馬子は絶大な権力を持っており、天皇をないがしろにする発言をするなど好きなように政治を動かしていました。その背景には、蘇我馬子が推古天皇の叔父さんだったことも関係しています。当時の権力者は天皇家と政略結婚をして実権を握っていたのですね。

そんななか、推古天皇が摂政として選んだのが聖徳太子です。聖徳太子は文武天皇の息子で、推古天皇のおいでした。天皇家から信頼できる、また有能な人材を使って政治をおこなおうと考えたのです。

摂政は、天皇が幼いときや女性であるとき、病気で政務をとれないときに代わりに政治をおこなう人のことです。日本国憲法にも摂政の制度はありますので確認しておきましょう。必ずしも摂政を置かなくてはいけないわけではありません。女性天皇でも、のちの持統天皇は摂政を置いていませんでした。ただし、時代背景の違いから、推古天皇は聖徳太子を摂政として政治をおこなわせたのです。

聖徳太子がおこなった3つの改革

聖徳太子は幼少のころから天才として有名でしたが、推古天皇の摂政として腕を振るい、蘇我馬子の勢いをおさえるために次々に改革を打ち出し、天皇中心の政治体制に戻すための仕組みを考えだしました。3つあるので、ここは必ず内容も含めて押さえておきましょう。

冠位十二階

まずおこなったのが「冠位十二階」制度をつくることです。603年のことです。冠位十二階のポイントは、役人を選ぶ際に、家柄や血筋ではなく、能力がある者を登用する、という点です。

それまでは、血筋である「氏」(うじ)に「姓」(かばね)という役職をつけていました。飛鳥時代の前の古墳時代では、身分の高い血筋なら、能力に関係なく役職を引き継ぐことができていましたが、それでは腐敗してしまいますよね。

聖徳太子は血筋ではなく能力・実力がある人を積極的に役職に就かせることとし、役人に「冠位」を与えて世襲制ではなくその人一代限りの役職としたのです。もし親と同じ役職につきたければ、努力しなければなれない仕組みにしたので、これは当時画期的なことでした。

冠位には12段階あり、6つの位を大小2種類に分けて全部で12段階にしてました。そしてかぶる冠の色で役職を区別したのです。詳しい位や色は覚える必要はありません。たとえば、当時紫色は非常に高貴な色だとされていたので一番上の位に使われました。濃い紫の冠をかぶった人は一番高い役職だった、ということになります。

憲法十七条

冠位十二階を定めた翌年の604年聖徳太子は憲法十七条(十七条の憲法)を制定します。今の日本の憲法は「日本国憲法」ですが、聖徳太子の時代に憲法が作られたという歴史があることがわかりますね。日本国憲法は、すべての法律の頂点と言えるもので、最高法規とも呼ばれ、役人だけでなく国民も守るものです。しかし、憲法十七条は、役人が守るべきルールを17条にまとめたものです。誰に対するルールなのか違う点を考えてみると覚えやすいですよ。

憲法十七条をすべて覚える必要はありませんが、特に重要なものについては内容も含めて押さえておきましょう。

・和を以て貴しとなし(けんかをせず仲良くしなさい)
・あつく三宝を敬へ(仏教の教えを大切にしなさい)
・詔を承けては必ず謹め(天皇の命令を聞きなさい)

この内容を見ると、聖徳太子が仏教の教えに基づき、天皇中心の政治をしたかったことがわかります。

遣隋使の派遣(607年)

聖徳太子は外交にも積極的に取り組みました。有名な遣隋使の派遣です。607年という年号とともにしっかり押さえておきましょう。

当時の中国をおさめていたのは、隋(ずい)という王朝です。非常に強い勢力を持ち、勢力範囲も広かったので、聖徳太子は隋との関係性を強めるために遣隋使を派遣することを決めました。このときに遣隋使としてわたったのが「小野妹子」(おののいもこ)です。小野妹子も繰り返しになりますが男性です。

聖徳太子が小野妹子に持たせた、隋の皇帝である煬帝にあてた手紙の内容は有名ですね。「日出ずる国の天子から、この書を日没する国の天子へ致す。つつがなきや」というものです。当時はまだひらがなはないので漢字で書かれていたので隋でも読むことができたのですね。この手紙に書かれていた内容を簡単に言うと、「日が昇る国の天皇(推古天皇)から日が沈む国の皇帝(煬帝)へ。元気ですか」というものです。

強大な権力を持った隋の皇帝に対し、強気な文を送ったことで有名ですね。単に虚勢を張るのではなく、聖徳太子は、日本と隋が対等な関係であることを示したかったのです。ただし、「日が沈む国」と書かれた隋の皇帝にとっては、まるで勢いがなくしぼむだけ、ともとれるので煬帝は非常に起こったそうです。小野妹子にとってはピンチでしたが、そのような内容を書いてくる日本という国はどのような国なのか興味を持ち、日本に使いを派遣しました。聖徳太子が隋からの使いに、天皇中心の政治体制や都のようすを見せたところ、使いは感心して帰国したと言われています。

飛鳥文化は日本初の仏教

飛鳥時代に花開いた文化を「飛鳥文化」と言いますが、飛鳥文化で押さえておきたいポイントは、日本初の仏教文化だったということです。聖徳太子は政治も仏教に基づき、天皇中心でおこないましたが、その時代に生まれた飛鳥文化も仏教文化だったのです。飛鳥時代の建造物が今も残っているので、代表的なものを押さえておきましょう。その際は、場所を地図帳で確認し、資料集で建物や仏像などを確認しておきましょう。

法隆寺

飛鳥文化でまず第一に挙げなければいけないのは「法隆寺」です。「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という俳句があるほど、文化人からも愛された建造物です。

法隆寺は聖徳太子が建てたと言われている、日本最古の木造建築の寺院で、世界文化遺産にもなっています。なかには、釈迦三尊増や玉虫厨子などの仏像や美術品が納められています。これらは有名なのでチェックしておきましょう。

飛鳥文化は、仏教文化ですが、大陸、すなわち中国や朝鮮、インド、ペルシア(今のイラン)などのさまざまな国々の文化の影響を受けていました。たとえば、法隆寺の柱の特徴は「エンタシス」というものですが、これは柱の中央がふくらんだ様式で、ギリシャの影響もうけていたと言われています。飛鳥文化が世界の文化を取り入れて花開いた国際色豊かな文化だったことがわかります。

飛鳥寺・四天王寺

法隆寺以外にも飛鳥時代の建造物として有名な寺院はいくつもありますが、中でも有名なのは飛鳥寺と四天王寺です。飛鳥寺は蘇我馬子が建てたと言われています。天皇を暗殺するなど血なまぐさい印象のある蘇我馬子ですが熱心な仏教信者でした。自分の罪をゆるしてほしいという願望もあったのかもしれません。

また、四天王寺は、聖徳太子が摂政となったときに建てたと言われています。聖徳太子が摂政になったのは593年です。四天王寺を立てた経緯は、聖徳太子と蘇我氏が協力して物部氏を滅ぼしたときに、四天王という仏様に祈りをささげて勝利した記念に四天王を祀る寺として建てられたと言われています。今でも大阪に四天王寺という地名が合ったり学校名になっているなど、有名な名前なのでしっかり憶えておきましょう。

飛鳥時代は印象深い人物とできごとがたくさん

古墳時代までは現代でもよくわかっていないできごとや実在したのかわからない人物がいるなどして、年号もあまり出てきませんでしたが、飛鳥時代には有名な人物やできごとがあり、年号も出てくるようになってきます

ですが、まだ年号などは少ないので、誰が、なぜ、どのように行動したのか、という流れをしっかり押さえておきましょう。飛鳥時代では覚えなければいけない知識自体はそれほど多くありません。流れとポイントになるキーマン、資料集に載っている史料を基に、理解を深めておきましょう。それを習慣にすると、どの時代においても歴史の流れを自然に理解できるようになるので夏休みの間に身につけておきましょう。

次回は、飛鳥時代のその②でまとめておきたいポイントをご紹介します。

<関連記事>

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です